木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

情報が歴史を変える 南宗寺にある徳川家康の墓

2024-07-14 00:17:24 | 随想
何かを投稿すると、その事が様々に自分の中に
触発を起こしたり連鎖反応を生んで新たな着想
が生まれます。
流れとして織田信長、豊臣秀吉の随想を投稿
したら徳川家康についても随想したくなります。

画像の墓石は大阪府堺市の南宗寺にある
徳川家康の墓です。
これは2013年に私が撮影したもので現在は
南宗寺は境内の撮影は厳禁にされていますが当時は
まだ普通に撮影できる状態でした。
何故今は南宗寺の境内が撮影厳禁にされているかと
尋ねたら
「色々な人が撮影してインターネットに載せるから」
との事でした。

徳川家康の墓が南宗寺にあるという事実を発信
されたらそんなに困る事ですか、と私が以前に
南宗寺に尋ねたら困惑していた様子でした。
今もまだ現在進行形の何かがあるのでしょう。

南宗寺にある徳川家康の墓。
発起人は松下幸之助氏や当時の政財界の方々で
墓石の裏面に刻まれています。
ですからいい加減な方々や余興ではなく確かな
目的で建立されたものです。

では何故、徳川家康の墓が堺市の南宗寺にあるのか。
それは実は徳川家康は大阪夏の陣にて真田幸村
による猛攻撃を受けて本陣深くまで斬り込まれ
危機を感じた家臣が徳川家康を籠に乗せて脱出
させた際に、途中で豊臣方の後藤又兵衛が籠を
怪しみ馬上から槍で突き刺した事が致命傷となって
死んでいたというのです。
徳川家康を載せた籠は堺の南宗寺に辿り着き
大阪夏の陣の真っ最中だったために南宗寺の境内に
仮埋葬をして、関係者だけに分かるように仮設の石
を置き、後から改めて久能山へ、そして日光東照宮
へと埋葬したとの事です。

それで松下幸之助氏らかつての政財界の方々が
徳川家康はここで死んだという事で南宗寺に
徳川家康の墓を建立したという事です。

更に言えば説は2つあり、
1つは後藤又兵衛の槍で一突きされて虫の息で
南宗寺に辿り着き、南宗寺にて息絶えたという説。
もう1つは南宗寺に辿り着いた時には既に徳川家康
は息絶えていたという説。
いずれにしても徳川家康は大阪夏の陣の最中に
戦死していた可能性が極めて濃厚なのです。

徳川家康戦死・・・。
これが誰か1人でも豊臣方に知られたなら
歴史は変わっていました。
戦は大将が討ち取られたら終わりですから豊臣方
は随所で総攻撃の法螺貝を吹き、全軍総攻撃となり
徳川家康を失った徳川方は壊乱、総崩れとなり
徳川幕府は2代将軍の徳川秀忠の代で終焉し
再び豊臣政権となり大阪が首都になっていたでしょう。

奇跡的に徳川方が徳川家康戦死の情報を完璧に
隠し通し、途中から総指揮を徳川秀忠が採る
ように変更し、大阪城を落城炎上させた事が
徳川幕府の崩壊を防いだのでした。
徳川家康戦死・・・これが情報ですね。
情報の重要さを改めて感じます。
情報をいかに取り出すかという諜報、情報を
いかに取られないようにするかという防諜。
徳川家康が戦死しても取り乱さず徳川家康が次代
を育てるために徳川秀忠に総指揮を譲ると取り繕い
豊臣方に誰一人として知らせずに守り通した
徳川方の防諜、情報統制が優れていたという事です。

真田幸村も猛攻撃をした中で徳川家康に肉薄
しながら籠で逃がし、やがて力尽きて茶臼山付近
にて戦死しましたが、もしも自分が徳川家康本陣
に深く斬り込んだ事が徳川家康を逃亡させ、
その途中で徳川家康が討ち取られていたと知った
ならと思うと無念でしょう。
籠を槍で突き刺した後藤又兵衛もまさかその籠が
敵の総大将の徳川家康だったとは知らずトドメを
刺さなかった事が歴史を変えました。
籠の中身を後藤又兵衛が確認していたなら
「徳川家康討ち取ったり!!」
と雄叫びをあげ、法螺貝を吹き鳴らし、徳川家康を
討ち取った知らせを受けた大阪城の豊臣秀頼は
全軍に総攻撃の命令を発し、豊臣が起死回生の
勝利を手にしていたという事です。

教科書の歴史では徳川家康は大阪夏の陣勝利
の後、天ぷらを食べて食中毒を起こして死んだ
とされています。
あまりにも呆気なく不自然だと感じませんか?
やはり南宗寺に松下幸之助氏ら政財界が徳川家康の墓
を建立したように、徳川家康は戦死していたと
見るのが自然ですね。

情報が歴史を変えるという良き事例です。

実は奈良市にある漢国神社には大阪冬の陣に際して
今の京都府木津川市辺りでの戦いで敗れた徳川家康
は命からがら逃げていて、漢国神社の中に逃げ込み
そこにあった桶の中に隠れて迫りくる豊臣方の軍
から逃れて九死に一生を得ています。
奈良市の漢国神社にはそれを説明したものがあり
合戦の後、神社は徳川幕府から感謝されているとの
事です。
大阪冬の陣も戦場は大阪だけではなく今の京都府南部
にも及び、ここでも徳川家康は敗れています。

歴史事実は教科書内容とは全く違いますね。

それにしても堺市にある南宗寺ですが2013年
には他にも文化財の仏像が盗まれたという説明板
がありましたが、数年前に訪れた際には撮影厳禁
と共にその説明板も撤去していました。
今は案内ガイドが案内というよりも、まるで来客
による撮影を防ぐための張り付きにしか見えない
のですが、そのガイドに私が
「確か仏像が盗まれたのですよね?」
と尋ねるとギョッとした表情になりあまり言いたく
ないのですが、と言ってきました。
更に私がコリアがよく言いがかりをつけては
日本各地から仏像を盗み出す事例が続出しましたが
南宗寺もその事例でしょうかと尋ねたら私に
張り付いて歩くガイドが黙りこみました。

そのような諸々の事実は隠す必要はないでしょう。

今の時代、テレビなどでもバイデンは既に
本人ではない事は公然の秘密、公然の事実である
ように歴史というものも教科書的な内容を鵜呑み
にしていては永遠に何も知らないままになります。

歴史を紐解く事はロマンですね。
堺市には更に本能寺の変に際して徳川家康は暗殺
されていたという説もあります。
面白いですね。
影武者、成りすましは今でもありますから戦国の世
ならば尚更でしょう。

歩いて読み解く、体感する歴史も醍醐味です。
事実は小説より奇なりです。
まさに歴史は国家機密。
分かるような思いです。

南宗寺にある徳川家康の墓。
情報が歴史を変えてしまうという良き教訓です。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2024-07-14 04:37:56
都立谷中霊園にあります徳川慶喜の墓とはだいぶ異なりますね🙄

ご検索いただくと、ご覧いただけます🪦

実際に行ってみると、ちょっと暗い感じがします😔
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