木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

見慣れた筈の肖像画

2024-07-07 08:52:38 | 随想
見慣れた筈の織田信長と豊臣秀吉の肖像画。
見慣れ過ぎていたために見ていても見落として
いた事があります。

それは家紋。
見慣れた、見慣れ過ぎた筈の織田信長の羽織
の肩の部分に記されている家紋を見れば、
五三の桐です。

これに対して見慣れた、見慣れ過ぎた筈の
豊臣秀吉の家紋を見ると五七の桐です。

五三の桐と五七の桐。
五七の桐は最も格上で今でも皇室や日本政府
の紋にもなっています。
五三の桐は五七の桐よりは一段下ではありますが
それ相応の格という意味です。
明治時代以降は庶民も勝手にデザイン感覚で
縁起にあやかり家紋を使い始めている事例が
多発していますから、今の時代は家紋だけでは
先祖のルーツを遡る事は難しい場合がありますが
明治時代以前の日本の世は家紋などの使用は
厳格でしたから、家紋はシンボルとして言葉以上
のメッセージになりました。

教科書的な歴史に染まっていると見落として
いましたが、このように家紋を見るとある事実
に気付きます。
それは、
五七の桐 > 五三の桐
ですから、見慣れた筈の見慣れ過ぎた筈の肖像画
に描かれている織田信長と豊臣秀吉の家紋を見ると
豊臣秀吉 > 織田信長
という格になります。

そんな馬鹿な、織田信長が木下藤吉郎こと後の
豊臣秀吉を草履取りの足軽から大抜擢したのでは
ないか、織田信長が格上の筈・・・。
誰しも固定観念や教科書的な常識からすれば
そのように考えるでしょう。
しかし世の常として歴史には何かが隠されています。

事実、豊臣秀吉は武士では絶対になれない関白
になりました。
関白秀吉ですから。

本能寺の変で織田信長が倒れた後、今の姫路辺り
にて毛利を攻めていた豊臣秀吉は実に手際良く
「中国大返し」をしています。
いきなり不意をつかれて織田信長が襲われていた
ならば豊臣秀吉もあのような出際の良い大返しは
できないでしょう。
私の直感として、豊臣秀吉も本能寺で織田信長が
襲われる手筈になっていた事を事前に知っていた
可能性をいつも感じます。
更には織田信長のデスマスクがバチカンにあります
から、織田信長は本能寺の変では死んでいない事
も明らかですね。
織田信長はバチカンで寿命を迎えています。

ならば本能寺の変とは何だったのか。
これはまたいずれ検証を重ねたいと思います。

いわゆる本能寺の変にて織田信長が日本からは
いなくなって以降、豊臣秀吉は本来ならば跡継ぎ
の筈の織田信長の息子たちを次々と追放して
自分が天下統一を果たしました。
これをどう見るかですね。

以前の投稿でも述べましたように私としては
四国の忌部氏の末裔の織田信長が南朝親王の子孫
で農民に身をやつしていた木下藤吉郎こと後の
豊臣秀吉を引き立て、やがて基盤を整えた豊臣秀吉
が織田信長がいなくなった日本で天下統一を
果たしたと見ます。
しかし徳川家康も本能寺の変で襲われていますから
徳川家康は本能寺の変の意味を知っている筈。
だから徳川家康が疎ましい豊臣秀吉は徳川家康を
当時は湿地帯だった江戸に配置換えをして事実上の
左遷をしました。

その徳川家康は豊臣秀吉が晩年を迎えると
抑えていた天下統一の野望を包み隠さなくなり
豊臣に徳川が取って代わろうとし始めます。
大阪冬の陣、大阪夏の陣を経て豊臣は滅び
徳川家が盤石の権力基盤を構築しました。
その徳川はかつては富士山麓にあった隠れ南朝
の護衛役で南朝復活を目指して松平と名を変えて
三河に入り込んでいたのですから、ある意味、
豊臣に対する下剋上だったとも見えます。

いずれにせよ、歴史とは国家機密でもあります。
教科書的な歴史は権力により都合よく定められた
物語だというくらいの認識で見れば良いですね。
現実の世の中の本質を歴史に当てはめれば様々な
何かが見えてきます。

そのような試み、随想もまた楽しいものです。

ちなみに添付画像にあるのは織田信長のデスマスクです。
バチカンに保管されていたものだとか。
言うまでもありませんが、遺体の顔に石膏を
流して顔を形取るものですね。

織田信長は本能寺で死んでいません。
事実、織田信長の遺体は本能寺から見つかって
いませんね。
明智光秀が本当に織田信長を討ち取るために
本能寺に攻め入ったならば、何が何でも手にしたい
ものは織田信長の首、織田信長の遺体、もしくは
織田信長を生け捕りにする筈。
事実、本能寺からは織田信長の首はもとより
織田信長の遺体は見つかっていません。 

織田信長の首塚はありますが、本当に織田信長
の首が埋葬されたかは疑わしいです。
それよりも織田信長のデスマスクがバチカンに
あるという事実が大切です。

つまり織田信長はバチカンにて寿命を迎えた
という事ですね。

本能寺の変はいまだに真相が明らかになって
いません。
真相が明らかになっていない事例が幾つか
ありますが、それらは全て、いまだに現在進行形の
何かがあるという事です。

事実は小説より奇なりです。
歴史は国家機密でもあります。
歴史には様々な人々や世の中の含蓄があります。
だから紐解きが面白いのです。

いずれ本能寺の変の紐解きも試みてみたいですね。


コメント (1)
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