木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

揶揄社会への危険性

2010-12-01 23:32:39 | インポート
 国会議員が議場において秋篠宮殿下が陛下を起立した
ままお待ちになっていることに対して小声ながら野次を
飛ばしたという報が飛び交った。
 事実ならば遺憾であり、緩みきった国会の空気を垣間
見る思いである。野次ありきの国会の姿が随分と長く悪
い意味で定着してしまっている。主題から逸れてとにか
く野次る。何を発言しても誰かが卑猥もない野次を飛ば
す光景が日常化している。そういう空気の延長線上に今
回の国会議員による秋篠宮殿下に対する野次が生まれた
のだとすれば、言論の府としての、国権の最高機関とし
ての国会における議論の姿について今一度見つめなおし
てみる必要にあるのではないか。

 国会は言論の府である。唯一の立法機関である。それ
がこの長い間、罵詈雑言の飛び交う場と化し、言論の府
ではなく罵声とののしり合いの場と成り下がってはいま
いか。この数年、国会を傍聴した国民やテレビでの国会
中継を見ている国民から「野次が見苦しい」という声が
多数出ている実態を、政治家はもっと重く受け止めるべ
きではないか。
 世間の感覚から遠ざかった皮膚感覚の国会議員同士が
世情から浮世離れしたような話題でののしり合う、争い
の為の争いを繰り広げている姿は国民の失望を買い、中
には「おめでたいですね」と失望を含んだ皮肉が国民の
口からこぼれている始末である。

 いわゆる「左」と云われた人々の国家観の無さ、現実
認識能力は余りにもひどいものがある。また「右」と云
われた人々の視野の狭さと極論へと突拍子に飛躍する様
は偏狭さを感じてならない。今、この時代に健全なバラ
ンス感覚と現実に基づいた視野に立つ政治家が求められ
る。
 
 最近の日本の世の中は揶揄社会となっているかのよう
だ。余りにもメディアやテレビが責任ある立場の者を茶
化しこきおろし、批判のための批判を乱発してきたなれ
の果ての姿が今日の姿ではないのか。例えば学級では生
徒が担任の先生を揶揄して反発する。学校では各先生が
校長を揶揄し抵抗する。保護者は学校や担任を揶揄し、
無理難題を突き付ける。決まり事は公然と破り、指摘す
る先生を指弾する。そうしてメディアは政治家を茶化し、
そして政治家は政府や最高責任者を揶揄し野次ありきの
野次を飛ばしこき下ろす。
 こういう姿が随所に頻発する日常を重ねると規律は緩
み無秩序になる。

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