四十肩という。
10代、20代の頃には40歳を過ぎると肩がだんだん上がらなく
なる四十肩になるよ、と言われてもその感覚が理解できず、そうい
うものなのかなという程度に思っていたが、最近ふと背伸びをしよ
うと両手を上げようとしてハッとした。
肩が上がりにくくなっているのである。
嘘だろう、本当かなと驚いた。
いつの間にか肩が固まっているようである。万歳の姿勢に労力
を要するようになっている。
これが四十肩か、と41歳の今ひしひしと体感している。
ゴロンと床に大の字に寝転がると30代前半までは気持ち良かっ
たが、今はゴロンと大の字に寝転がると広げた両手の肩の部分が
いかにも無理をして両手を広げているという感覚になり驚いている。
この感覚は10代や20代の頃には絶対に想像も理解もできない
体感である。
年を重ねていくに連れて身体が固まっていくのだろうか。
ストレッチが大切な年齢になっている。
過日、ストレッチ専門店に行き60分ストレッチで身体をほぐしたり
伸ばしたりしてもらったが身体の可動領域がいつの間にか狭くなっ
ていて驚いた。
40代、まだ若いが同時にもう20代や30代のようには若くない世
代として、また世の中においてはこれから油が乗ってくる年代として
身体のケアに留意しながら励んでいきたいものである。
身体は車の運転とよく似ている。
新車の頃は各所も部品もピカピカだがまだ走行距離がない。
人間も若い頃は身体はピンピンして健康だがまだ人生の風景が
刻まれていない。
ある程度の距離を、例えば10万キロ20万キロ走行するうちに車体
が傷んだり部品が磨耗したりエンジン部品が消耗していくがドライバー
としては幾つもの車窓からのドライブ風景や物語が豊富になる。
人間も年を重ねると関節が傷んだり肩が痛くなったり皺が増え髪も
白くなっていくが、人生風景が豊かになり感受性や蓄積も多くなり人生
が味わい深くなる。
車の10万キロは人間の30代、20万キロが40代後半に相当する
であろうか。
ふと肩を回しながら四十肩だなと感じつつ思いを巡らせた。
またある日、少し疲労が溜まったなと感じたので久しぶりにスポーツ
ジムに行った。25歳から通い続けているスポーツジムに入ったら21
時30分を過ぎていた。
疲労が溜まった時にエクササイズや筋力トレーニング、ランニング等
で身体を動かすと滞留している疲労物質が体内を循環して噴き出す汗
と共にデトックスされるために逆に疲労が取れる。
これを積極的休養というのだろう。
ストレッチをして身体をほぐしてからトレーニング器具を使っているう
ちに日常活動で固まった筋肉とは違う筋肉を動かしたり違う刺激を与
える事で逆に元気になる。
退出時間の23時まで筋力トレーニング、ランニングマシンでのランニ
ングを20分、水泳、水中ウオーキングをした。
気分爽快であった。
まず血流が良くなり、汗が噴き出し体内の疲労物質や老廃物を排出
し、リンパの流れが良くなり、それに伴って体液が循環し、エネルギー
の循環が良くなるために身体に良い。身体が喜んでいるのが分かる。
私はスーツを着ていると細身に見えるが、34歳頃までは腹筋も割れ
ており胸板もそれなりについていた。しばらくトレーニングをサボってい
るうちに腹筋の割れが無くなってしまいトレーニングをしない身体つき
になりつつある。
今ここで怠けて中年体型に陥ってしまうのか、スポーツ体型を維持で
きるかの分かれ道であるように思える。
可能な限り月に2回はスポーツジムを利用するように努力したい。
努力と述べたが、20代の頃は月ではなく仕事帰りに週2回~3回は
スポーツジムを利用していた。当時は身体を動かさない事が苦痛であ
ったが、いつの間にか身体を動かすことが億劫になっている。
実際にトレーニング器具を使うと身体が感覚を思い出して気持ちが
良く、楽しいのだがスポーツジムに行くまでの気持ちがものぐさになっ
てしまう。
私がスポーツジムに通い始めた25歳の頃はジムのフロアの利用者
は20代ばかりであったが、ふと先日ジムのフロアを見渡してみると私
と似たような40代前後の男女ばかりの姿しかなく、20代の姿がほとん
ど見られない。
スタッフに何故20代の男女がいないのかと尋ねると、そう言えばそう
ですねという返事であった。
私が25歳の頃のように今の20代の男女が多数いても自然な筈なの
だが、まるで当時の20代だった私達がそのまま年齢をスライドして40
代になり、その世代がジムを使用しているような感覚である。
今の20代の男女はスポーツジムをあまり活用しないのだろうか。
時折スポーツジムに行く度に20代男女の利用者がほとんど見られな
い事が気になっている。
嗜好が変化してきているのだろうか、それとも私が利用しているスポー
ツジムのかつ私が利用している時間帯だけいつも20代男女の姿が見ら
れないのであろうか。
ふと感じる風景である。
10代、20代の頃には40歳を過ぎると肩がだんだん上がらなく
なる四十肩になるよ、と言われてもその感覚が理解できず、そうい
うものなのかなという程度に思っていたが、最近ふと背伸びをしよ
うと両手を上げようとしてハッとした。
肩が上がりにくくなっているのである。
嘘だろう、本当かなと驚いた。
いつの間にか肩が固まっているようである。万歳の姿勢に労力
を要するようになっている。
これが四十肩か、と41歳の今ひしひしと体感している。
ゴロンと床に大の字に寝転がると30代前半までは気持ち良かっ
たが、今はゴロンと大の字に寝転がると広げた両手の肩の部分が
いかにも無理をして両手を広げているという感覚になり驚いている。
この感覚は10代や20代の頃には絶対に想像も理解もできない
体感である。
年を重ねていくに連れて身体が固まっていくのだろうか。
ストレッチが大切な年齢になっている。
過日、ストレッチ専門店に行き60分ストレッチで身体をほぐしたり
伸ばしたりしてもらったが身体の可動領域がいつの間にか狭くなっ
ていて驚いた。
40代、まだ若いが同時にもう20代や30代のようには若くない世
代として、また世の中においてはこれから油が乗ってくる年代として
身体のケアに留意しながら励んでいきたいものである。
身体は車の運転とよく似ている。
新車の頃は各所も部品もピカピカだがまだ走行距離がない。
人間も若い頃は身体はピンピンして健康だがまだ人生の風景が
刻まれていない。
ある程度の距離を、例えば10万キロ20万キロ走行するうちに車体
が傷んだり部品が磨耗したりエンジン部品が消耗していくがドライバー
としては幾つもの車窓からのドライブ風景や物語が豊富になる。
人間も年を重ねると関節が傷んだり肩が痛くなったり皺が増え髪も
白くなっていくが、人生風景が豊かになり感受性や蓄積も多くなり人生
が味わい深くなる。
車の10万キロは人間の30代、20万キロが40代後半に相当する
であろうか。
ふと肩を回しながら四十肩だなと感じつつ思いを巡らせた。
またある日、少し疲労が溜まったなと感じたので久しぶりにスポーツ
ジムに行った。25歳から通い続けているスポーツジムに入ったら21
時30分を過ぎていた。
疲労が溜まった時にエクササイズや筋力トレーニング、ランニング等
で身体を動かすと滞留している疲労物質が体内を循環して噴き出す汗
と共にデトックスされるために逆に疲労が取れる。
これを積極的休養というのだろう。
ストレッチをして身体をほぐしてからトレーニング器具を使っているう
ちに日常活動で固まった筋肉とは違う筋肉を動かしたり違う刺激を与
える事で逆に元気になる。
退出時間の23時まで筋力トレーニング、ランニングマシンでのランニ
ングを20分、水泳、水中ウオーキングをした。
気分爽快であった。
まず血流が良くなり、汗が噴き出し体内の疲労物質や老廃物を排出
し、リンパの流れが良くなり、それに伴って体液が循環し、エネルギー
の循環が良くなるために身体に良い。身体が喜んでいるのが分かる。
私はスーツを着ていると細身に見えるが、34歳頃までは腹筋も割れ
ており胸板もそれなりについていた。しばらくトレーニングをサボってい
るうちに腹筋の割れが無くなってしまいトレーニングをしない身体つき
になりつつある。
今ここで怠けて中年体型に陥ってしまうのか、スポーツ体型を維持で
きるかの分かれ道であるように思える。
可能な限り月に2回はスポーツジムを利用するように努力したい。
努力と述べたが、20代の頃は月ではなく仕事帰りに週2回~3回は
スポーツジムを利用していた。当時は身体を動かさない事が苦痛であ
ったが、いつの間にか身体を動かすことが億劫になっている。
実際にトレーニング器具を使うと身体が感覚を思い出して気持ちが
良く、楽しいのだがスポーツジムに行くまでの気持ちがものぐさになっ
てしまう。
私がスポーツジムに通い始めた25歳の頃はジムのフロアの利用者
は20代ばかりであったが、ふと先日ジムのフロアを見渡してみると私
と似たような40代前後の男女ばかりの姿しかなく、20代の姿がほとん
ど見られない。
スタッフに何故20代の男女がいないのかと尋ねると、そう言えばそう
ですねという返事であった。
私が25歳の頃のように今の20代の男女が多数いても自然な筈なの
だが、まるで当時の20代だった私達がそのまま年齢をスライドして40
代になり、その世代がジムを使用しているような感覚である。
今の20代の男女はスポーツジムをあまり活用しないのだろうか。
時折スポーツジムに行く度に20代男女の利用者がほとんど見られな
い事が気になっている。
嗜好が変化してきているのだろうか、それとも私が利用しているスポー
ツジムのかつ私が利用している時間帯だけいつも20代男女の姿が見ら
れないのであろうか。
ふと感じる風景である。