木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

世の中に美味しい話は存在しない

2013-10-18 21:56:50 | インポート
 市場原理主義や金融資本主義を再考し本当に人々が適切に
満たされた思いで暮らしていくことができるあり方とは何なのだろ
うか、と私の中で模索している。
  気が付けば次々と金融において新たな仕組みや制度が始まっ
ていく。NISAもその一つである。小額投資非課税制度といわれる
NISAは要するに年間100万円までの投資に対して非課税にする
という事であり、あまり資金を持っていない人達にまで投資させよう
という仕組みである。
 色々と解説がされているが、要はこれまででは投資しなかった少
ししか資金のない人達にまで年間100万円まで非課税という美味し
い響きで投資させたいという事である。
 少ししか資金を持っていない人達までが損失を出す、私はそのよう
な危険性を感じている。

 世の中には美味しい話はない。これが鉄則である。にも関わらず、
美味しそうに見えたり聞こえる話には必ず何かの大きな意図や裏が
ある。NISAも同じである。NISAの真の意図や裏をどこまで見ている
であろうか。これまで投資をしなかった少ししか資金のない人達からも
資金を出させ、従来の投資をしている層にはこれまでの優遇税制を廃
止する、つまりあまねく皆から更に収穫しようということなのである。
 ようやく定年退職を迎えた人達がささやかな退職金をもらい、慎ましく
年金生活を始めて老後を過ごすにあたり、その手元に入った退職金や
なけなしの貯金をしたたかに見つめている人達がこう囁く。
「貯金や退職金をぜひ運用に出して見ませんか?」
と。
 そして何故か多くの人々がこの話に乗せられてしまう。哀れでもある。
運用に出して元金より多く戻ってくるなら運用会社が利益にならない。
従って必ず最初はうまく運用されているかのように装うが、必ず急転直下
して元金割れになる場合が多い。最初の運用がうまく行っているように見
える時には現金に換金できない期間だと定められている場合も多く、数字
の上だけの運用益にぬか喜びになる場合も多い。
 退職金を運用に出して、あわよくば退職金を増やしたい、美味い味を味わ
いたいと思う人々が何故か多いことが悲劇を生むのである。退職金の運用
でバラ色の老後を満喫したいと淡い期待を抱く人が何故か多いが、多くは
失敗して破産したり悲惨な老後を過ごしている。
 退職金は運用等に出さず退職金のまま手元に置いておき、慎ましく老後
の人生設計を立てるほうが好ましい。下手をすれば運用に熱中するあまり
退職金の全てを失うことにもなりかねない。

 金融業界の人がもっともらしく勧誘してくるが、彼ら彼女らですら何も分か
っていない場合が少なくない。何故なら今や金融市場は人工知能のような
コンピューターが計算して動いている場合が多く、そこに人が介在する余地
がないからである。
 NISAは私は外国資本が更に日本人からなけなしの手元の貯金や資金を
巻き上げるために金融庁をして始めさせる新たな利益収穫システムだと解釈
している。
 美味しい話が世の中にあるわけがない。よく目を覚ましていこう。

 現実にはあり得ないパターンだが、もしも以下のような投資であれば私は
乗ってもいい。
 例えば100万円をAという運用会社に信託したとする。もしも3年か5年後
に運用が失敗して信託した100万円が90万円になった場合は運用会社が
損失を穴埋めして最低でも最初に信託した元金100万円で返してくれる。
その代わり運用が成功し例えば信託した100万円を110万円にしてくれた
場合、私は運用益分の10万円のうち3万円をAという運用会社に支払い私
自身の取り分は7万円にする。
 現実にはあり得ないが、もしもこのような投資内容であれば私は乗る。

 運用が失敗したならそれは信託されたプロの責任である。本来であれば
そのようになる。しかし現実は運用が失敗しても元金を信託した人達の自己
責任という事になり、しかもそういう金融の世界の常識に対して誰もが違和感
を感じない事が犠牲者を続出させているのである。
 素人に信託するのではなく運用のプロに信託するのであるから、運用に失
敗したならそれは託されたプロの責任である。まともな世間一般の感覚から
判断すれば責任はプロにある。しかし現実は運用に失敗してもプロは手数料
まで取っておきながら、
「残念ですね。自己責任です。」
としてそれで終わりとなる。
 このような現実を見れば、退職金や貯金の投資運用は限りなくハイリスク・
ノーリターン、オールペイン、ロストオンリーでしかないと私は感じる。
 また企業としての投資運用会社も上記の私が乗るとしたような運用であれば
企業としての採算が取れないために運用会社として成立できない。
 従って投資はギャンブルに等しいとしか感じないのである。
 私は投資運用はしない。

 投資は様々な論理や理屈でもっていかにして相手や団体や組織からまとまっ
た巨額の資金を出させるか、という事で成り立つ。投資する側は夢を抱くが全て
の人の夢を叶えていれば投資をさせる側からすれば意味がない。
 いつの頃からか、ありとあらゆる分野の組織や団体が投資に走ってしまった。
それが年金基金であり、自治体の基金であり、企業の資産であったりした。お
かげで多くの企業年金基金や厚生年金基金は本来の年金のための資金という
本分を忘れ投資に走り巨額の運用損失を出してしまった。従って多くの企業年金
基金は枯渇している。つまり多くの会社員はやがて自分達の企業年金が破たんし
ているという信じられない事実を知ることになる。
 多くの自治体も投資に走ってしまった。各基金がその対象とされ、例えばある自
治体では100億円の基金が運用に出されて失敗し20億円しか存在しない事にな
っている。自治体財政が悪化している少なからぬ理由の一つは基金などを何故か
投資に出して運用してしまった事によるものである。いつの間にか何かの基金が急
に激減したり底をついて議会で大問題にされている自治体が少なからず存在する
であろう。それは基金を投資運用に出すという大問題を起こしているからである。
 また少なからぬ企業も資本を投資運用に投じて巨額の運用損を出して経営にま
で悪影響を生じている事例がある。
 投資は人や組織や自治体までも道を誤らせる。
 損失した分だけ外国資本がごっそり潤っているだけである。

 鉄則を改めて復唱しよう。
 世の中に美味しい話は存在しない、ということを。

コメント (2)
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