Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
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ある中学生からのメール

2007-01-05 19:45:42 | 報道写真考・たわ言
先日、僕の出身地である仙台の中学3年生からメールをもらった。彼女が中学1年のときに僕の写真展をみてくれたそうだが、その後世界の見方が少し変わったそうで、他の写真展や講演会などにも足を運ぶようになったという。

その彼女が、学校の文化祭で出展するためにある文章を書いた。

文化祭のテーマは「地雷」。この学校では、文化祭ごとにテーマを決め、そのことについて学生達が学んだことを発表するという。このときにひらいた「地雷展」の、最初の部分に展示するために彼女が書いた文章を送ってきてくれたのだ。

ちょっと長いが、本人の許可を得たので、全文を引用したい。



「はじめに」

地雷によって世界が受ける傷跡とは何でしょうか?

想像してみてください。
ある国では、地雷による犠牲者の1/3が私たちと同年代か、それ以下の子どもたちだそうです。遊びに行ったはずの兄弟が、数時間後には片足、片腕がなくなってしまった…。裏の畑のすぐ隣は、もう地雷危険区域…。通学路も完璧には安全と言えない。いつ、誰が地雷を踏むか分からない…。そんな事が起こりうるのです。

地雷が何より危険で悲惨だと言われるのは、地雷がどこにあるかが分からないという事にあります。戦争中に、兵士たちを怪我させるために大量に埋められた地雷は、戦争が終わった今も変わらず“敵軍”を地面の中で待っています。地雷は、道を歩いて来る人が“兵士”なのか“民間人”なのか区別することはできません。ですから、戦争が終わった今、残された地雷は一般市民をも犠牲にするのです。何の警戒もない小さな子どもたちや、野菜を採ろうとしていた人たちが地雷の線に引っかかってしまう。戦争が終わって復興を目指す村人たち、戻ってきた難民の人たち…、そんな人たちをも傷つけてしまうのです。

あなたは今日、どこを歩いてきましたか?どの道を歩いてきたとしても、そこに危険なものが埋まっている可能性は限りなく薄いでしょう。
「そこに地雷が埋まっているかもしれない。」
「次の瞬間、自分の足はなくなってしまうかもしれない。」
そんな事を考えて、私達は道を歩いたことがあるでしょうか?
私はありません。多分、クラスの子たちもみんなそう答えるでしょう。あなたはどうですか?地雷の恐ろしさは、日常の恐ろしさなのです。

日本もわずか3年前まで地雷を持っていたことを、あなたは知っていますか?
世界では、撤去されている地雷の数よりも、生産されている地雷の数の方が上回っている事を知っているでしょうか?
今なお世界には地雷が埋まっている国がたくさんあること、たくさんの人たちが地雷によって傷ついていること、地雷のために流された涙を、みなさんに知ってもらいたい!それが、文化祭でこのテーマを取り上げた理由です。

地雷がなくなれば世界が平和なるわけではありません。
では、どうすればいいのでしょうか?私達はこの学習を経ても、その答えを導き出すことはできませんでした。調べれば調べるほど、歴史は難しく折り重なっている事が分かり、人によって全然見方も考え方も違うものだとも分かりました。

「平和」とは、何なのでしょうか?
たったの2文字で表されるこの言葉の意味を、私達は考え続けています。世界にとっての平和とは?日本にとっての平和とは?私にとっての平和とは?あなたの、あなたの目の前にいる人の考える平和とは?…

これを通して、地雷、そして世界の平和を考えてもらえれば幸いです。自分の周りだけでなく、今この瞬間の世界を見てください。そしてもし答えが見えてきたなら、その時、地球はちょっと前に進むことができるでしょう。

3年 池川 香澄



この文章を読んで、僕は思わず唸ってしまった。僕が普段から言いたいことを見事に代弁してくれているような気がしたからだ。

平和な日本では、戦争のことなど、どうしても「他人事」として考えがちだ。

それをいかに「自分にも関係あること」として考えてもらえるか、僕ら報道者たちは頭を悩ますことになる。そうでなければ、結局は「ああ、可愛そう。。。」で終わってしまい、その後の行動に何も結びつかないからだ。

池川さんの文章を読んで、地雷のことを今までと違った見方で、より「身近」に考えるようになった人は少なくないのでは、と思う。

僕はこういう仕事をしていながら、実は世界情勢(特に日本の状況)に対してかなり悲観的な思いを持っている。それでも、池川さんのような若い人たちと出会うと、まだ捨てたものではないかな。。。と嬉しくなるし、なんだか彼らから元気をもらっているような気もするのだ。

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9 コメント

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Unknown (je taimer rock)
2007-01-06 19:21:16
子供と戦争の話をすると
実に素直に同じような事を言ってきます
私は過去が、情勢が解れば解るほど
「そうは言っても自分には何も出来ない」
という諦めが入ります
大人って彼是余計な事ばかり考えて
直諦めてしまうような感じがします

でも、それはこの日本に居るからで…
自身にそのような恐怖が無いからで…

この文、素敵ですね。娘や息子にも見せます


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テポドン (bluesnow)
2007-01-06 23:36:55
きのうだか、友人と「愛国心とは何か」について議論する機会がありました。つかれた~~~(笑)平和とは?、戦争とは? 日本にいたら恐怖がない? 友人は、北朝鮮が核をもっているのだから、日本も核武装するべきだ、日本はそれだけの技術力をもっているのだから、少なくとも脅さねばなめられる、憲法9条は改正すべき、愛国心とは日本が危機的状況にあるときは日本のために死ぬことだ、反戦主義者は愛国心がない。理想だけではテポドンが飛んでくるかもしれない現実に対処できない。。という考えをもっていました。日本にも、戦争や平和について、身近なものとして具体的に考える事例は、山ほどころがっていると思います。そういうことを日々考えさせる教育が必要なのでは、と、友人の熱弁を聞きながら考えていました。抽象的に「世界」をふりかざさなくても、日本にも危機が迫っているのでは、と思いますよ。どこかで、ヒトラーが登場したのは、非常に優れたワイマール憲法を民主的?な方法で改正?していったからだと読みました。大衆操作のファシズムは静かにやってくるそうです。
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いい文章ですねえ (**kom)
2007-01-08 08:04:10
なかなかやるなあ、と思いました。中学生の時私はそんなことを考えたりしてなかったような気がします。文化祭、って言葉自体懐かしいですけれど。

「ヒトはなぜ戦争をするのか?―アインシュタインとフロイトの往復書簡」という本があります。アインシュタインが発明したものは、この手紙のやり取りの後に広島と長崎でその威力がわかりますが。この手紙は、ずっとナチによって隠されてきたとも言われています。ぜひ、子どもたちにも読んでもらいたいと思います。

私は、身近にいる障害のある子とか障害のある人に力を入れてしまうことが多く、世界平和まで考えることが大変だけれど(障害者はいま国内では法律が変わり、生活を続けるることが大変な状態)、それでも今年も小さいことを積み重ねていきたいですね。アインシュタインは自らを「戦闘的平和主義者」と書いています。私たちももしかしたら、もう、できる限り小さいことからなんて言っていられなくて、実は「戦闘的平和主義者」にならなければいけない時代に入っているのかもしれないと思ったりします。

香川さんの文章を読ませて頂いてありがとうございました。
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Unknown (池川香澄)
2007-01-08 09:48:18
私の通っている学校の中にも、自分には関係ないことだ…と言う友達も大勢います。お金(募金)だけで解決しようとする人たちもいます。

私は誰かを変えようなんて傲慢な考えは持たないようにしています。
だから、そういう風にしか考えられない友達に
私の価値観をおしつけようとは思いません。
私は私のできることをしようと、「はじめに」を書きました。
長い文ですが、読んでいただけて光栄です。

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『ぼくの見た戦争』から (池川香澄)
2007-01-08 10:01:07
続けて失礼します。

調べてみると分かったんですが、
なぜかアフリカや中東・東南アジアが戦地になる事が多いですよね?
それがずっとなぜなのか疑問だったんです。

けれど、『ぼくの見た戦争』を朗読するためにじっくり読み返していてやっと分かったんです。
私が1番気に入っていたページだったのに、
なぜ今さら気づいたのか不思議な位でした。
青空の下で兵士が銃を構えている所で、
「朝の空気は、まだ肌寒いほど~」と言う所です。
あのページで邦典さんが伝えたかった事、
私の勘違いでなければ、それが答えなのだと思います。

だから、世界で起きている戦争や紛争は、私たちの日常の生活と関係があるという自覚を持たなければならないのだと思いました。
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Unknown (硝子)
2007-01-08 21:36:12
池川さんの地雷展に寄せての文章、本当に心にまっすぐそして深く届きました。池川さんのお友達たちの中に今は「無関心」の人もいるかもしれないけれど、きっと心の奥深くに届いていると思います。高橋さんが書いているように、この文章をよんで、「より身近」にいろいろなことを感じるようになった人は沢山いると思います。この素晴らしい感性をもった若い人たちが希望をもって安心して暮らせる社会の礎を、大人たる私たちが頑張って築いていかなくてはいけないなー。と思いました。私もこの文章を読んで「私にもできることがないかな」と初めてJICAに足を運んで資料を沢山もらってきました。本当にささいな一歩ですが・・池川さん、高橋さんありがとうございました。
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地雷を踏んだ私 (日本で療養中の妻)
2007-01-08 23:48:42
私は主人のしかけた地雷を踏んで心が壊れ、鬱病になり、5年近くたった今も苦しんでいます。日本は戦争がないからといって平和ではありません。年間の自殺者は3万人もいるのです。そして私のような鬱病患者は心を失ったまま死を選択するのです。
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次の世代・・・ (maki.mignon)
2007-01-10 13:15:56
人はいろいろな考え方、感じ方をします。しかし、今この瞬間に世界のどこかで起こっている悲惨な出来事・・・ほとんどの人が気付かずに、何も感じずに過ごしてしまいます。邦さんのように伝える人、そして、池川さんや私のように伝えられる人。後に池川さんのような次の世代の人達が伝える人、もしくは、何かを変えていく人になっていくんだろうなと考えると、なんだか嬉しかったです。
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諦めという選択 (ゆうこ)
2007-01-10 13:31:19
私の母は今ガン患者として病気と闘っていますが、本人の心の諦めは体を悪い方向に向けるようです。いろいろなことが絶望的に感じるとき諦めたらそこで終わりですから。医師じたいも「ガンは治らない病気」として取り組んでいる人と、「治るためになにができるか」をベースにしている人とではまったく違う治療・結果になるようです。手に持てるものには、限界があるけれども、心の中に持つものには限界はありません。自ら心の中に境界線や、限界点を作ってしまうのは 一見楽ですが、本当の意味での満足や納得にはならないのではないでしょうか。
いつも全速で走れなくても、諦めないしぶとさを持つことだと思います。
世界も捨てたものじゃないと、いえるのは誰かが捨てないでいてくれたからだと思うのです。私は捨てていませんし、自分のできる限りのことはしていくつもりです。次世代のそういう人たちに世界を引き継ぐために。
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