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Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

帰らぬ息子を待つ母親たち

2009-12-23 23:06:36 | アジア
インド北部のカシミール地域でのアサインメントを終えて、数日前から首都のデリーに来ている。

しかしカシミールは寒かった。まあシカゴの冬に比べればたいしたことはないにせよ、州都スリナガーは朝晩0度くらいまで冷え込むので、27度のムンバイからやってきた身体にはなかなかのショック。

ここではアサインメントの撮影以外に少し時間があったので、自分で別な取材もおこなってきた。

カシミール地方では、インドからの独立を求めて1990年初頭から武力闘争が続いているが、それを制圧するために駐屯しているインド兵士たちによって相当な蛮行がおこなわれてきた。特に闘争がピークだった90年代には、兵士達による深夜の家宅捜索や不当逮捕、拘束が相次ぎ、無数の若者達が武装グループに属しているという根拠のない疑いをかけられ連れ去られたという。以来消息のわからなくなった逮捕者の数は8千人とも1万人ともいわれている。

すでに10年以上経つ現在も生死のわからない、そんな息子達を待ち続ける母親たちの話しを聞いてきたのだが、これはあらためて何らかの媒体で報告したいと思っている。

デリーではパキスタンのビザを申請。心配していたほど面倒ではなく、無事2日間でジャーナリストビザを取得できた。まだ仕事がはいったわけではないが、いずれにしても近いうちパキスタンへは出向く必要があると思うのでその準備だ。

明日、クリスマスイブの夜にまた暑いムンバイへと戻る予定だが、インドでのクリスマス。。。どんな感じなのだろう?


久しぶりのニュース取材

2009-12-13 22:47:14 | アジア
先週ニューヨーク・タイムスからの仕事が入り、久々にニュースの取材でインド南部にあるハイドラバードに行ってきた。

ここではあまり詳しくは書かないが、ハイドラバードを州都とするアンドラ・プラデッシュ州において、50年近くにわたり独立した州の設立を要求してきたテランガナ地域の住民達がついにその悲願を達成するか、という状況の撮影だ。

テランガナ地域の住民やその支持者たちによるストライキやデモで、日曜日からハイドラバード市内は騒然。僕が撮影を始めた水曜日も、大学キャンパスや州議会でデモをおこなった支持者が多数逮捕されるなど緊張は高まっていた。

結局、10日間を超える抗議の断食を続けていたテランガナ地域の政党リーダーが押し切ったかたちで、州議会はテランガナの独立を容認した。テランガナ住民達は歓喜に沸いたが、今度はその翌日には反独立の議員達や市民がデモをおこすなど、僕がムンバイに戻ってきた現在も混乱は続いている。

新しく州が独立するということはインドにとっては大きなニュースだ。

テランガナ以外にも、国内では現在9カ所で独立州としての地位を求める運動が続いており、今回の決定によって他地域の独立運動が勢いを増す可能性もある。そうなるとインド政府としても収集がつけられなくなるだろうし、この問題はこれからも注意して追っていきたいと思う。

最近の仕事はビジネスものが多かったので、僕としては人々の熱気のうねるニュース現場にまた戻れた嬉しい数日間ではあった。

(写真:逮捕されるテランガナ支持者たち)

ベトナム枯れ葉剤

2009-12-09 02:59:51 | アジア
お知らせ

今年7月に取材した、ベトナム枯れ葉剤の記事がようやくトリビューンに掲載されました。以下が僕のつくったマルチメディアのリンクです。

http://www.chicagotribune.com/videobeta/?watchId=cf95025f-9f01-49db-bd21-7b05279862b4


http://www.chicagotribune.com/videobeta/?watchId=a9c58162-cd1c-41e8-adae-80eb8d99718c

http://www.chicagotribune.com/videobeta/?watchId=bfa6526a-856a-4b46-99d4-061256179a79

物乞いの女の子

2009-11-29 14:04:40 | アジア
不覚にも先週デング熱というを患ってしまい、40度の高熱と体中の痛みで数日間ダウンしてしまった。ジャイプールで何度か蚊に刺されたので、たぶんそれが原因だろう。それでもなんとか木曜日までには体力も回復し、ムンバイ・テロ事件一周年の撮影には間に合った。

一周年追悼に関しては、集まった人たちの感情もいまひとつで、病み上がりの体に鞭打って行ったわりには写真的にはほとんど収穫無し。テロの標的のひとつとなったタージ・ホテル前の広場に集まった群衆も、犠牲者の追悼というよりは半ばお祭り、といった感じの雰囲気であった。

そんな中途半端な追悼イベントよりも、この日タージに向かう途中で遭遇した一人の女の子の姿が僕の脳裏に焼き付いた。

彼女は交差点で停まったのタクシーの窓にべったりと張り付いてきた物乞いだった。物乞いの子供など珍しくもないので、はじめは特に気にも留めなかったのだが、普段見かけるような、窓をたたいたり、腕を車内に突っ込んでくるアグレッシブな子供達と違って、この女の子はただ静かにじっと僕を見つめているだけだった。その何とも例え難い寂しげな瞳に惹かれて、僕は窓越しにカメラを向けた。逃げる訳でもなく、微笑む訳でもなく、彼女はただレンズを見つめ返してきた。

5秒だったか、10秒だったか。。。僕らはファインダー越しに視線を合わせるながら、短い時を共有した。

やがて信号が青に変わり、タクシーが動き出すと共に彼女の姿は後方に滑り去って行った。

子供や赤ん坊をだしに悪用して小銭を稼ぐ輩が多いので、僕はよほどのことがない限り物乞いに施しはしない。それでもさすがにこのときは少しばかり心が揺らいだ。

久々の取材

2009-11-22 14:00:03 | アジア
昨日ムンバイにもどってきた。
女性住民の大半が売春婦となって出稼ぎにでる村と、児童労働の問題など、短い間にいくつかのストーリーをこなしてきたので忙しかったが、そこそこ撮れたかなと思う。ムンバイに移ってきてから雑用に追われて思うように撮れなかったので、しばし日常を離れ撮影に集中できた。
とりあえずは写真の整理と原稿書きに追われそうだが、ビデオも撮ってきたのでこちらの編集にも手間がかかりそう。

ムンバイのナイトライフ

2009-10-30 00:14:23 | アジア
先日、友人に誘われてナイトクラブへ行ってきた。

ナイトクラブ、といっても別にいかがわしい場所ではなく、ディスコ(歳がばれる!?)のようなもので、大音量の音楽の中酒を飲んで踊るだけのところ。

僕はハウス系の音楽はあまり好みではないので、普段クラブに足を運ぶことはほとんどないが、ムンバイのナイトライフには興味があった。

午後11時をまわっているのに店内はそう込んでいない。酒を飲みながら時間をつぶしていると、深夜をまわった頃からぞくぞくと若者達が詰めかけてきた。

酒と言えば、ここでの洋酒の値段は舌を巻くほどだ。ジャックダニエル一杯が800ルピー(およそ16ドル)。シカゴの一流ホテルバーでの値段にひけをとらない。通りの安い飯屋なら、100ルピー以下で昼食くらい食べられるから、このウイスキー一杯がいかに高額かわかるだろう。友人の話しでは、輸入酒にはべらぼうな税金がかけられるので、こういう値段になるらしい。

混み合ってきた店内には、きっちりメイクをきめ、薄手のドレスで肩を露出したファッションの女の子たちの姿が至る所に見える。外を覗くと、煙草を吸う子達も少なくない。

こういう現場にくると、一見してインドももう文化的に随分開放的になったか、などとも思うのだが、実は日中街なかを歩いていても、こういう姿の女の子を見ることなどほとんどないし、増してや女性の喫煙など目にすることはほぼ皆無だ。

特に結婚やセックスに関することになると、西洋や日本とは比べ物にならないくらいまだまだ保守的なインド社会、クラブで背中を露出し、カクテルを飲みながら踊る女の子達も、ここまでが限度。まだまだ健全な夜遊びを楽しんでいる。彼女達がそうそう簡単に一線を越えることはないようだ。




ディワリの祭典

2009-10-18 19:16:01 | アジア
ムンバイに来てから怒濤のような一週間が過ぎた。

ビザの更新手続きやらアパート探しに追われて、なかなか腰を据えた撮影ができない。以前から聞いていたとおり、ムンバイの家賃は高い!経済の中心地であり、また南北に細長くのびる町の形状からもインドのマンハッタンともいえるこの町だが、家賃もニューヨークのそれにひけをとらない。

ダウンタウンに近いちょっといい場所になると、2ベッドルームのアパートでも月に2000ドルや3000ドルの家賃をとられることになる。そんな状況だから、毎日1時間や2時間かけて郊外から通勤してくる会社員や労働者たちも少なくない。この1週間で、もう40件ちかく物件をみてまわったろうか。。。なんとか来週までにはみつかりそうだが、それでもシカゴで払っていた家賃よりも高くなるのは間違いないだろう。

今週末はディワリとよばれるヒンドゥー教の新年のお祝いで、町中に爆竹の音が響き渡っている。まあクリスマスと正月が混ざったようなものなのだが、別名「光のフェスティバル」とよばれるように、家や店舗にランタンやロウソクなど光の装飾を施すので、町がきらきらと輝くその光景も美しい。

このディワリを撮るためにここ数日毎晩遅くまで町に繰りだしているのだが、湿気の多い暑さと人ごみで、情けないがホテルに戻るころにはもうへとへと。。。なんだか歳を感じるなあ。

少女ハン

2009-08-19 23:15:48 | アジア
「通りには夏の気配、

蝉の声がきこえる。

でも妹はまだ苦しんでいる。

妹は孤児。

もう笑う事も歌う事ない。

彼らが彼女を殺した。

枯れ葉剤が殺したの。

枯れ葉剤が私たちの母を殺した。。。」

ベトナム北部のクアン・ビン地方での取材で出会った少女ハンが歌ってくれた歌だ。

彼女は生まれた時から脳に水が溜まる病気を煩い、毎日のように癲癇の発作をおこす。

15歳になる妹は脳性麻痺で腕が不自由、口をきく事もできない。

父親のディウは戦時中、北部兵士として南部との境界付近で戦い、米軍の散布した枯れ葉剤を幾度も浴びた。

戦後、彼は15人の子供を儲けたが、そのうちの12人が3歳になる前に亡くなったという。どうして子供達がみな死んでいったのか、医者もわからなかった。

ハンは発作がおこっていない時は快活で、英語も少し話すほど頭脳明晰な少女だ。発作が収まってしばらくすると、けろりとして冒頭の歌を歌ってくれた。

19歳の彼女はこれまで4度、頭から水分を抜く手術をうけたが、病気が治る見込みはない。このままでは、彼女の命もそう長くはないだろう。。。

戦後30年以上たった今でも、何十万人というハンのような子供達が、枯れ葉剤の負の遺産を引きずり生き続けている。

(写真:癲癇発作をおこし横たわるハン)

奇形児にカメラを向けて

2009-08-09 03:10:53 | アジア
ベトナムで枯れ葉剤の被害者である子供たちを撮影しているとき、例の如くカメラマンとしての葛藤を感じるときがままあった。

良く葛藤する奴だなあ、などと言われそうだが、仕事でこういう境遇の人間たちと接していると、いろいろ考える事は多いものだ。

ホーチミン・シティーのトゥ・ドゥ病院にあるピース・ビレッジには、障害を持った50人あまりの子供たちが収容されている。その多くが、枯れ葉剤による影響であると認定された子供たちだ。眼球をもたずに生まれてきたり、頭蓋骨の異常形成など、重度の奇形障害を持った子供たちも少なくない。

ここの子供たちに限らず、それまでインタビューしてきた多くの犠牲者の子供たちにカメラを向けながら、僕の心には常になにか割り切れない思いがつきまとっていた。

カメラマンとしての僕は、その子供たちの外見上最も「醜い」部分に焦点をあてることになる。写真一枚で、枯れ葉剤の散布がいかに非人道的な行為であったかを子供たちの姿を通して伝えなくてはならないからだ。

しかしその反面、家や病院など、実際の現場で子供たちに接していると、彼らも単に一人の人間である、ということに気づかされる。手を握ったり身体を擦れば、好き嫌いはちゃんと反応してくるし、嬉しい時には彼らなりの表現方法で「笑う」ことさえできるのだ。

そんな「人間」である彼ら達を、僕は写真のなかでまるで「モンスター」であるかのように描写しようとしているのではないか。。。そんな、矛盾のような罪悪感のような、複雑な思いが払拭できないでいた。

もし、彼らが伝える言葉を持っていたら、こんなことを言われていたかも知れない。

「私のこんな姿を撮らないで。。。」

勿論、母親や看護婦などとの交流をとおしながら、彼らを血の通った「人間」として撮影することも可能だし、そんな写真も撮ってきた。

しかし究極的には、犠牲者の子供たちの「非人間的」な描写によってのみ、この戦争犯罪の「非人間性」を直接視覚的に伝える事はできないのでは、という思いもある。

この葛藤に対する答えを得るためには、さらなる経験を積まなくてはならないのかも知れないな。

スクリーン・シェア

2009-08-02 11:35:30 | アジア
写真の整理が終わり、数日前からビデオ編集におわれている。

ビデオ編集にはファイナルカットというソフトを使うのだが、これまで本格的に動画を扱ったことのない僕にはかなりのチャレンジ。ビデオ編集作業はもともと撮影自体よりもはるかに長い時間がかかるものだが、僕の場合ソフトを学びながらなので一段と手間がかかる。

しかし、インターネットの発達で、世の中つくづく便利になったものだ。遠隔地に住む友人から、手取り足取りの助けを受けられるようになったのだから。

こういう事に疎い僕はこれまで知らなかったのだが、パソコンのスクリーン・シェアリングという機能を使うと、なんと自分のパソコン画面を友人とライブで共有できるのだ。すなわち友人のパソコンに僕のパソコン画面がそっくりそのまま映ることになり、僕は彼にビデオ編集作業を見せながら同時進行でアドバイスを受けられるというわけ。電話ではなかなか伝わりにくいテクニカルなことも、彼が僕の画面に直接アクセスできるので簡単にスクリーン上で示してもらうことができる。

おかげでこの数日間で基本的なファイナルカットの技術も学ぶことができたし、このスクリーン・シェアリング機能、実に重宝している。

とはいえ、こういう機能が役に立つのも、それを活用して時間をかけながら辛抱強く教えてくれるいい友人があってのことだけれど。。。

D君、感謝してます。これからも頼むよー。

(ベトナム取材報告はまだできる段階ではないので、とりあえず写真を1枚アップ:枯れ葉剤をあびた母親から生まれた青年)

古都フエの記憶

2009-07-26 23:21:24 | アジア
ベトナムでの枯れ葉剤の取材整理で大忙しだ。今回はかなりの数のビデオも撮影してきたのだが、とりあえずは写真の編集におわれている。休みも返上して自宅で編集作業をおこなっているが、ビデオ編集は写真より遥かに手間がかかるので、これから先のことを考えるとちょっと気が遠くなりそう。。。

ベトナム滞在中、中部のフエ(ユエ)を訪れた時のことをひとつ。

この町はベトナム最後の阮朝の首都であり、現在ではユネスコの世界遺産にも登録されている王宮などの建造物の点在する美しい古都だ。日本で言えばさしずめ京都のような町といえるだろう。

しかし僕がこの町の名前を以前から知っていたのは、そういった理由からではなく、沢田さんの写真のせいであった。勿論、ベトナム戦争時に活躍した沢田教一カメラマンのことである。以前にも書いたかと思うが、僕が報道写真の世界に足を踏み入れるきっかけになった人だ。とはいっても、僕は彼の伝記を読んだだけで、実際に会ったというわけではない。彼がカンボジアで殺されたのが1970年。僕がまだ幼少のころだ。

フエの攻防戦は沢田さんが経験した戦闘の中でも最も激しいものだった。伝記によれば、彼はフエの攻防についてこんなことを語っている。

「。。。1月30日からはじまったベトコンの総反攻と、それにつづく市街戦によって、破壊の手は全市にのびた。ベトナムへ来て3年、戦場にはずいぶん出かけたが、こんどのユエの攻防は、かつてないすさまじいものだった」

こんな彼の言葉に加え、破壊された古城の瓦礫の上を這いつくばりながら仲間の死体を回収する米兵たちを撮った彼の写真は、僕の頭に焼き付いて離れる事はなかった。

だから僕は、フエという町に特別な興味があったし、ここに来たからには攻防の舞台となった王宮をぜひ訪れたいと思っていた。幸い撮影の合間に時間の余裕があったので、2時間ほどかけて王宮とその周辺を歩き回る事ができた。

静かにたたずむ美しい王宮と、訪れる無数の観光客たちの姿と眺めていると、ここでそんな激しい戦闘があったなどとは想像し難い。しかし、注意してみると、城壁の至るところにはまだ多くの弾痕が残っていた。

「40年前、沢田さんもこの場所にいたんだ。。。あの写真の瓦礫はこのあたりだったのだろうか」

弾痕の前に立って、しばし思いを巡らせているうち、なんだか少し感傷的な気分になってしまう。

現在王宮ではその修復作業が進んでおり、敷地の半分近くはすでに綺麗にお色直しがすんでいた。40度ほどの暑さの中、作業員達が言葉もなくこつこつと古くなった木造部を磨き、新しい塗装を施していた。

そのうち、城壁にもあたらしい石が組み込まれ、弾痕も塞がれてしまうのだろうか?願わくば戦争の歴史を刻んだこの城壁群はこのまま残してほしいと思う。

失ってはいけない記憶もある。

バイク王国

2009-07-07 09:45:29 | アジア
取材に追われてなかなかブログをアップする余裕がない。今回は写真と同時にビデオ撮影もおこなっているので、こちらのほうの整理に結構手間がかかる。シカゴに戻ってからの編集作業のことを考えると気が重いなあ。

中部のダナン近郊での取材を終えて、2日前にホーチミン・シティー(旧サイゴン)にやって来た。北部、中部では主に、農村部での枯れ葉剤被害者の「家族」、および環境状況を主に取材してきたが、ホーチミンでは病院や施設なども見てまわる予定だ。

しかしこの国はどこにいってもバイクだらけだ。まさに国民の足代わりといった感じで、成人一人に一台はバイク(といってもスクーターとかカブのような排気量の小さなもの)を持っているんじゃないかと思う。見ていて面白いのは乗車時の女性のファッション。でかいマスクで顔の半分を隠し、この暑さなのに長袖、手袋というスタイルも少なくない。はじめは排気ガスのためにマスクをつけているのかと思ったが、女の子達にきいてみると、単に日焼け防止のためだという。ベトナム女性達にとっては、白い肌を守ることが大切らしい。

バイクは多いが車の数ははまだまだ少なく、道路で見る限り、バイク50台に対して車1台、くらいの割合だ。ガイドの話では、車に対しては購入に際し100パーセント以上の税金がかかるという事で、それなりの金持ちでないとなかなかカー・オーナーになるのは難しいという。

しかし、ハノイやホーチミンのような大都市を除いては道が狭い上、駐車スペースもほとんどないため、この高い税金は車の増加にいい具合に歯止めをかけているといえるだろう。現在でもすでに道路はバイクで溢れんばかりになっているのに、このうえ車が増えたら、交通渋滞の劣悪化は必至だ。

とはいっても、不況のあおりを受けながらも順調に経済成長を続けているこの国では、車を購入できる余裕のある国民が増え続けていくことは確実だ。5年後あたりにまた戻ってきたら、10キロの行程を行くのに1時間かかる、なんてことになっているかもしれない。


英語の通じない首都

2009-06-25 11:19:02 | アジア
ベトナムに到着して4日目、昨日ハノイを発って南下を始めた。ここから中部のダナンまで、数日かけて枯れ葉剤の被害者家族などを訪れながら車での移動になる。

ハノイで気づいたことのひとつに、英語を解する人が非常に少ない、ということがある。

外国人の出入りするホテルやカフェは別にして、一般市民、それも若い人たちの間でも「ハロー」とか「サンキュー」または数字の「ワン・トゥー・スリー」といった初歩的な単語さえも通じないことに驚いた。

それでも友人の話では、南に行くほど英語の通じる率は高くなり、ホーチミン・シティー(サイゴン)では英語を話す人間を探すのには苦労はいらない、とのこと。戦時中、米国が介入してきたのは南部なのでこれも当然のことだろう。

学校での英語教育はあるのかガイドに尋ねてみると、それが始まったのは1990年あたりだというから、まだ20年も断っていないことになる。周知の通りベトナムは戦前フランスの植民地だったこともあり、成人の多くは初歩的英語教育さえ受けていない。子供達にしても、学校で習う英語はベトナム人の先生によるものだから、発音もだいぶ違うし外国人の喋る英語はほとんどわからないようだ。(なんか自分の身にも覚えがある話だな)

また、これはあくまで私見だが、文化的な理由もあるようだ。

中東でもアフリカでも、音楽、テレビ番組や映画などの米国のメディア文化は結構浸透しているものだ。しかしここではそういったアメリカン・カルチャーの影響が生活の中であまり感じられないし、そんな理由もあって、市民が日常英語に接する機会もずっと少ないような気がするのだ。

理由はどうあれ、ハノイは僕が今まで訪れたなかでも、英語の通じない首都のナンバー1か2になるんじゃないかと思う。まあ別に英語が万国語というわけでもないし、それが通じないからどうした、と騒ぐほどのこともないんだけれど。。。

これから南下していくにつれ、果たして友人の言うように状況が変わっていくかちょっと興味のあるところだ。

ハノイ到着

2009-06-21 13:14:49 | アジア
一昨日の深夜近くにハノイに到着した。まだ取材がはじまらないので昨日は一日フリータイム。ボストン時代からの友人で、2年前にハノイに赴任してきたAP通信のカメラマン、チトセさんと久びさに再会し、彼女に町を案内してもらいながら1日過ごした。

それにしてもここは暑い。しかも暑いだけではなく、湿気が多い。外に出て5分も歩かないうちに体中から汗が吹き出てくるほどだ。夏のイラクでも50度を超える暑さは経験しているが、あれは乾燥した暑さだったのでこれほどの不快感は感じなかった。

そんなわけで1時間ほど歩いては冷房のきいたカフェにはいって休憩、のパターンを繰り返していたが、そのうちあることに気づいた。店内で身体が冷えない、のだ。これはすなわちどの店でも冷房をあまり「効かせすぎていない」ということだ。

日本の夏にはもう何年も帰っていないのでどんな状況かわからないが、シカゴでは往々に店内やオフィス内の冷房が効きすぎていて閉口する事がある。トリビューンの写真部でも、撮影から戻ってきて1時間もいると身体が冷えて寒気を憶えるようになるほどだ。外で汗だくになって撮影したあと、オフィスに戻る時には長袖のフリースなどを持って行かなくてはならない、というおかしなことになる。なんというエネルギーの無駄使い!

それに比べてここハノイでは、喫茶店でもレストランでも、大量の汗で湿ったティーシャツで入店しても、それが気持ちよく乾く程度で、1時間いても2時間いても身体が冷えてしまうということはない。

ささいなことなのだけれど、シカゴでもこういうことにもう少し敏感になるべきなんじゃないかとふと考えさせられた。塵も積もれば、で、市内の店やオフィスがそれぞれ冷房の設定温度を1度か2度あげただけで随分な省エネになると思うんだけど。。。


ベトナム~枯れ葉剤

2009-06-18 10:32:40 | アジア
ベトナム戦争中に米軍によって使われた枯れ葉剤に関する取材のために、明日から3週間ほどこの国へ出かけることになった。トリビューンの経営状況からいって、もう国外取材はほぼ無いだろう、と覚悟していたので正直言って嬉しい驚きだ。

しかし実はこの取材も、一記者が個人プロジェクトとして始めたものが、調査ジャーナリズム基金に認められ取材補助金が支給になったために実現したものだ。だから、トリビューンとしては彼が自力で勝ち取ったチャンスにうまく便乗したに過ぎない。

まあ理由はどうあれ、外に取材にでられるのは嬉しいことだし、ベトナムは僕にとっては初めてなので期待も大きい。

枯れ葉剤についてはこれまで日本を始め世界中のメディアから何度も取材されてきているし、特に新鮮な題材というわけではない。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%CF%CD%D5%BA%DE

しかし、この農薬をつくった薬品会社に対する訴訟はまだ続いているし、何より戦後30年以上たった現在でも、ダイオキシンを含むこの非人道的な薬剤の影響を背負い生き続ける人間たちが何十万と存在しているのだ。ここには枯れ葉剤のために身体に障害を持って生まれてきたベトナムの子供たちは勿論のこと、戦時中に薬品会社から事実を知らされずに枯れ葉剤を扱わされ、身体に重度の支障をきたした元米兵達も含まれている。

マリアナの取材に続いて、とても意義のある仕事になりそうだ。