熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「トランスアメリカ」

2006年09月05日 | Weblog
同性愛や性同一障害をテーマにした映画は少なくない。そのような作品だけを集めた映画祭も東京をはじめとして世界各地で開催されている。それほどこのテーマは多くの人々の関心を引くものなのである。しかし、私にはよくわからない。個人の問題だと思うのだが、それが差別や政治の問題につながるとすれば厄介なことである。最近の同性愛を巡る動きには、それを政治に利用しようとする人々の気配が感じられ、いよいよ厄介なことになりそうな気もする。

さて、これは興味深い作品だった。性同一障害やDVといった要素を織り込みながら、親子という人間関係や自分らしく生きるということの意味を問うているような気がする。

社会には暗黙の掟が無数にあり、それらに従うことで、その構成員の心の安寧と社会そのものの秩序を守るということなのである。固定化された掟は、その意義を問われない、ということも掟のひとつである。そこに合理的な存在意義がないものほど、追求されることを嫌う。母性や父性、ジェンダーはそうした問われることのなかった掟の象徴なのである。

この世は無常である。世の中は変化しているのに掟が見直されないというのは不合理である。しかし、法律のように明文化されたものは変えることができるが、暗黙のものは変えようが無いのである。合理とか不合理とかを超越したものを問うことはそもそも意味を成さない。説明できないものは理解できないのである。ただ、受け容れることができるか否かだけが問われるのだ。

変えることのできない、あるいは変えることができるとしても緩慢にしかできないものに反して生きることは、窮屈なことである。その窮屈をいかに緩和するかというところに当事者の知恵が問われる。生きることは悩むことなのである。

この作品のなかの親子は、はじめはぎこちない。当然である。生まれてから一度も顔を合わせていないのである。しかも、父は性同一障害で性転換手術を間近に控え、息子は留置場から出て来たばかりである。しかし、ニューヨークからロサンゼルスまでの道中を共にする間に、人と人との情愛は、上辺のことに関係なく、心の深い部分で交わされるものであることが了解されるようになる。作品のなかの人々も、おそらく観ている人々も。

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