熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ほんとうのこと

2012年04月15日 | Weblog

午前中は日本民藝館で開催された「日本民藝館の器でお茶をのむ 志功流お茶の楽しみ」というイベントに参加した。よくできた茶碗で茶をいただくというのは、陶芸をやっている身にとっては貴重な体験だ。名人上手と言われる人がどのような作品をどのように作るのかということを、制作の現場を見ないで知るには、その作品を使うことが次善の方策と言える。実物に触れることが重要で、単なるデータだけではわからないことが実物に触れることで了解されることもあるというのは茶碗だけに限ったことではあるまい。

午後は国立民族学博物館友の会の講演会で「ペー族の映像民族誌 制作過程で考えること」を聴講した。ペー族は中国雲南省に住む少数民族で、講師役の横山先生の研究対象だが、今日の話は社会人類学の研究に映像というものをどのように活用するか、ということもテーマのひとつである。映像はテレビのような商業利用の場合と学問の道具として利用する場合とでは、その意味するところが全く違う。ましてや人類学の場合、仮にある特定の家族の生活を追ったとして、そこに記録されているものがその家族固有のものなのか、社会一般のものなのかということは、何の予備知識もなしに映像を観た人には判断できない。資料として記録を残すのであれば、そうした違いがわかるような工夫が必要になる。字幕で説明を加える、ナレーションを入れる、文字情報だけの画面を挿入する、など方法はいろいろあるが、そうした説明が邪魔になる場合もあるかもしれないし、説明が間違っていればその間違いが記録に残り、後の研究をゆがめてしまうことだってあるかもしれない。

講演会のほうでは触れられなかったが、ペー族の映像を観ながら、これが商業映像だったらどうなるだろうかと考えてみた。商業利用のほうはむしろ誤解を生むように作るだろう。作り手に都合の良い誤解を生むことで、作り手の利益を創造するのである。よく客観とか主観というようなことを言うが、人間の認識であるかぎり、本当の意味での客観というものはありえない。何が「ほんとう」なのか、ということは結局自分が決めることであって、「ほんとうのこと」というものが存在するわけではないのである。それでも世間には「真実」だの「現実」だのというものが「客観的」に存在するという幻想があるので、そこに商売映像のつけ入る隙がいくらでもあるのである。

ところでペー族の映像だが、冠婚葬祭の様子が興味深かった。殊に葬儀だが、長寿を全うしたと村の物知りのような人が判断すれば、おめでたいものとして執り行うのだそうだ。長寿の定義というようなものは無いらしいが、曾孫がいるといったことも判断基準のひとつではあるらしい。死が一律に悲しむべきものというのではなく、同じ現象が文脈のなかで目出たくもなり哀悼の対照にもなるというところに、価値観とか文化というものが拠って立つところの脆弱性を感じないわけにはいかなかった。


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