『ケルン大聖堂』- 彼岸と此岸

2010年11月11日 | ドイツの暮らし

 

先日、久し振りにケルン市に行ってきた。中世からの歴史的な街。
天に向かって聳え立つ、そのゴシック様式の大聖堂はドイツのみ
ならずヨーロッパ教会建築史の大きな一頁を飾るものだ。
中世から近代史への何百年の時間と、何十万人、何百万人の
生き死にを超えて築き上げられた、ヨーロッパ屈指の大聖堂。
それは西欧世界の宗教心、キリスト教信仰、そして何世紀にも及ぶ
絶対的な教会権力の巨大なモニュメントであろう。今も見る者を
圧倒する。

しかし、19、20世紀を経て、更に世俗化の進んだ今日、異教徒の
僕には過去の亡霊が突如として立ち上がってきたような奇妙な
違和感がある。

むしろ今日のケルン大聖堂は、ロマンチック街道やノイシュバン
シュタイン城と並び立つドイツ観光の一大ハイライトだ。
毎日、世界中から何千人、何万人もの観光客が押し寄せて来る。
プロのスリ達もやって来る。それぞれに教会の尖塔を見上げたり、
他人の懐具合を推し量ったりしている。東京は浅草、雷門近くが
出身の僕はそんな時ついつい、子供の頃の仲見世や観音様の
境内の人混み、賑わいを想い出してしまう。うっかりしていると
とんでもない目にあう。ケルンでもジプシーの子供達に取り囲まれて、
一瞬の内に財布を捲き上げられた観光客を何度か目にした。

目に見える搾取と目に見えない搾取。神の御加護は平等である。
あまり憎む気にもなれない。聖書にも書いてあったように思う。
「貧しき者に幸有れ。」

閑話休題。大聖堂を除いてはケルンの街自体は第二次世界大戦の
際に連合軍の徹底的な爆撃、大空襲に遭い、ローマ時代からの遺跡、
中世からの整った町並み、何百年と人々の暮らしを支えてきたマルクト
や路地など一切合財が破壊された。

戦前から戦後へのケルンの変容は確かに凄まじいらしい。
しかし、今の若い人達や戦後の移民者、あるいは大聖堂を目指して
やってくる観光客の目に、それが目に留まることはまずないのだろう。
そこらへんの事情は、戦後ドイツのリベラルな良心を代表した
一人、ケルン出身のノーベル賞作家、ハインリッヒ・ベルの随想
「Eine deutsche Erinnerung/(或るドイツの回想)」に戦後ドイツ
社会への批判や皮肉も交えながら、詳しく書かれている。

晩年のベルは病気に侵されながらも、戦後世代の平和・反核運動、
そして、当時、芽を出し始めたオールタナティブの運動を積極的に
支えた人である。このオールタナティブの草の根運動が基盤となり、
そこから今のドイツのオーガニックが芽生え、発展し始めたのである。
それは70年代後半からのことだと思う。

永遠の時間と個別の生。 宗教倫理と生の感覚的享受。キリスト教と
市民精神。秩序と個人の自由。それらがいつも対立項であった訳
ではないが、常にその緊張関係の中で生きながら、時代に深く関わった、
骨太の表現者、文学者。それがハインリッヒ・ベルだったのだと思う。
僕がドイツ文学を専攻したのは、もう25年以上昔のことだが、
何故、彼に惹かれたのが今では少し分かるような気がする






想い出せば、若い頃の僕の学生生活の中にはもう一人のハインリッヒ
がいる。約30年前、右も左も分からずにドイツ文学を勉強し、その後、
家庭を設けて仕事をするようになった街。デュッセルドルフ。
ここでユダヤ系の商家に生まれ、ロマン派の夢想と熱情を持ちながらも
ドイツの旧体制を舌鋒鋭く批判し、半生をパリの亡命生活に送った
ドイツ文学史の異端児、ハインリッヒ・ハイネだ。





二人のハインリッヒ。ケルンとデュッセルドルフ。隣り合った
二つの都市の文学者。時代を、世紀を超えて共通する自由な文学の
精神がこの二人にはある。

心の中に彼岸がありつつ、此岸をこよなく愛した二人。文学の中で、
人間性を擁護することが、「真・善・美」や浪漫主義に行き着くことでは
なかった二人。多くのドイツ文学者とは異なり、ベルとハイネは、文学の
批判精神が紙の上だけではないことを身をもって示したと思う。

仕事と日常に埋もれ、ドイツの文学から離れて久しい。自分にも
もう亡くなった友達がいる。僕は、彼岸と此岸の両方を見つめながら、
残りの時間を大切に使いたい。

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