「天と地と私達の生活のつながり- 福島の佐藤幸子さんの言葉」

2014年04月21日 | ドイツの暮らし


下の文章は、東電原発事故の惨事まで福島県で自給自足型の自然農を
長くなさっていた佐藤幸子さんの言葉です。
是非、御一読下さい。

(写真は何度か足を運んだ福島県飯館村の田んぼの除染後の姿です。
 稲穂が風になびくことはもうないと思います。)
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今日は、雨でした。

震災前は、この時期雨が降らないとやきもきしていました。
畑に、野菜の種が蒔けないからです。
震災後、雨が降らなくとも一向に気になりませんでした。
畑から離れると言うことが、天候にも関心が向かなくなることなのだと、
しばし、ボーゼンとしました。

福島の畑にも、種まきが始まっています。
心から喜ぶことが出来ない、福島の農業です。
どんなに頑張って田畑を除染しても、0ベクレルにはなりません。
0ベクレルの野菜やお米があるのに、県外の人が、
同じ値段で買ってくれるのでしょうか?
安ければ買うけれど・・・
結局、農業収入は減るのです。
食べるための作物は、諦めるしかないのかもしれない。

かつてどこの農村にもあった、農村の3原色。
レンゲの「赤」麦の「青」菜の花の「黄色」。
この3原色が消えた昭和30年代後半から、日本は高度経済成長期と言われ、
農家から、働き手が都会へと流れた。
その結果、人手不足となり、機械化、化学肥料、農薬が農村に持ち込まれた。
農家は、現金がなければ、成り立たなくなっていった。
薪や炭の生活は失われ、山は荒れ放題。
手作りしていた加工品は、会社帰りに、スーパーで買ってくるようになった。
昔からの伝統食は、若い人には受け継がれなくなり、
そのうち、自給していた野菜でさえ、
若い人は、スパーから買ってくるようになったと、
お祖父ちゃん、お祖母ちゃんは、嘆くようになった。

放射能は、これらの農村の風景を取り戻せと、
愚かな人間に教えているのかもしれない。
0ベクレルに出来ない田畑なら、食べるための作物でなく、
菜種を植えて、油を絞りなさいと教えてくれていると思わざるを得ない。
油にはセシウムは移行しない、せめともの救い。

私は、いつの日か、日本中の農村に、若者が生き生きとして働き、
3原色に包まれた美しいふるさとが戻ってくる日を待っている。







2012年秋、飯館村訪問時の写真