11月7日(火)、11月度「信長公記」を読む会がありました。出席者は12名でした。
今月はテキスト巻十二(5)丹波国波多野兄弟張付の事 の7月19日の段からです。
7月19日、信長公は中将信忠卿に指示し、津田与八・前田玄以・赤座七郎右衛門の三名に岐阜で井戸才介を殺害させた。理由は妻子を安土へ連れてこず、自身も他家を転々とする毎日で、安土では見かけぬ無奉公者であった。その上に先年偽造文書をもって深尾和泉を応援するなどの曲事が重なったため、このたび成敗となったのだ。
*巻十六(3)にも妻子を安土に連れてこなかった例があったが、その処分に比較して今回の殺害という処分は厳しすぎる感じがする。砂川先生は偽造文書の曲事(砂川先生推察:土地争いに関わる偽造文書だったのではないかと推察される)の罪を重く見たのだろう。
それと同日の19日、明智光秀は丹後へ出陣した。敵の宇津頼重は城を出て退却していったが、光秀は軍勢を進めてこれを追撃し、数多を討ち取り、首を安土へ送った。
その後明智勢は鬼箇城へ攻め寄せて近在を放火し、周囲に付城を築いて軍勢を入れ置いた。
(6)赤井悪右衛門退散の事 に入りました。
8月9日、丹波攻めの明智光秀が赤井悪右衛門直正の籠る黒井城を攻囲したところ、城から兵卒が討って出てきた。しかし光秀は逆にこれに付け入り、一気に攻め立てて外曲輪まで乱入し、大身の侍十余人を討ち取った。残兵は降伏して城を退去していった。光秀は次第を信長公へ詳細に言上した。これに対し、信長公は感状を下された。面目これに過ぎたるものはなかった。
*前年に赤井直政は病死しているので、赤井忠家が黒井城に出張ってきていたか。
*砂川先生は「レジュメの資料1(永禄12年3月23日付 荻野直政宛内藤虎貞書状) 資料2(永禄12年12月24日付 荻野直政・別所重棟宛今井宗久書状) 資料3(天正6年6月2日付 古志重信宛吉川元春書状)はいろいろのことを我々に示してくれている」と仰る。
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