K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

7月度「信長公記」を読む会

2024年07月12日 | 講座・会合

7月2日(火)、7月度「信長公記」を読む会がありました。出席者は12人でした。

テキストは巻十二(11)人売りの事

村井貞勝は和泉国堺湊で人売りしていた女房を召し捕らえ、事件の糾明を行った。女房は今までに八十人ほどを売り渡したことを白状したので、村井はただちに女房を成敗した。

*当時、人の売買は世界でも当たり前に行われていた。戦国時代には日本人が10万人ほど外国に売られていたか、密売ルートもあったようだ。

9月29日には加賀一揆の門徒で大坂へ向かっていた者を正親町中納言殿が捕らえ、信長公へ身柄を引き渡してきた。信長公はこれをよろこび、門徒を即刻誅殺した。

*砂川先生はここで配布したレジュメの「北陸の戦国略史(長享2年 加賀一向一揆が守護富樫政親を滅ぼす から天正6年上杉謙信死去、信長、越中守護代の神保長住を越中に送るまで)」について約40分解説するとともに、武家昵懇公家衆・陣参公家衆についても話が及びました。

 

テキスト 巻十二(12)謀書の事

10月1日、山崎の町人が、先年明智光秀・村井貞勝の裁きによって判決を下された公事を訴状をいつわり信長公へ直奏してきた。訴えを受けた信長公が村井に下問し、村井がその判決の次第を言上したため、偽訴であることが判明した。信長公は、曲事許しがたしとして町人を成敗した。

10月8日戌刻(夜八時)になって二条を発ち、夜もすがら下って9日の日の出どきに安土へ帰城した。

*太田牛一が何のために上記2段を記したのか判明しないが(単に記録魔だった?)、信長の人柄がよくわかる。

*10月1日の段からは京都町内のことは能吏でもあった光秀や村井貞勝に任せていたことがわかる。

*10月8日の段には、どのような緊急事態が起きたかは書いておらず、また他資料からもわからない。

 

テキスト 巻十二(13)伊丹城謀叛人の事

 10月15日、滝川一益の調略が奏功した。一益が佐治新介を使者として荒木方の中西新八郎を味方に引き入れ、その中西の才覚によって足軽大将の星野・山脇・隠岐・宮脇も謀叛に同調した。中西らは守備していた上臈塚砦へ滝川勢を導き入れ、敵勢数多を斬り捨てた。荒木勢は、取るものも取り敢えず有岡城へと逃げ入った。将士たちは親子兄弟を討たれて泣き悲しむばかりであった。織田勢は伊丹の町を損害なく奪取し、城と町との間にあった侍屋敷に火をかけて城を裸城にすることに成功した。

 岸の砦に立て籠もっていた渡辺勘大夫はこれを受け、砦を出て多田の館に退去した。しかし信長公は渡辺がかねて投降を申し出ていたわけでもないことからけしからんとし、渡辺を殺害してしまった。

 また鵯塚の砦は野村丹後が大将となって雑賀衆の加勢を得て守っていたが、士卒は戦闘によってことごとく討死し、窮した野村は織田勢へ降伏を打診してきたが信長公はこれも許さず、野村を殺害して首を安土へ運ばせた。

*9月27日の段で信長が古屋野の滝川一益のところにしばし逗留したのはこの調略について話し合ったのだろう。

*調略の時期としては村重が尼崎に脱出したこの時期が適当だ。

*渡辺、野村に対する処分から信長は筋目を通す事を重視していることがよくわかる。

*中西、渡辺、野村の中で中西を選んだ理由:砂川先生は「野村は村重の妹を妻にしている。岸は村重の重臣で落としにくい。いずれにせよ中西は村重から脱出を聞いていなかったなど不満があったのだろう。」と仰る。

 

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