草若葉

シニアの俳句日記
 ~日々の俳句あり俳句談義あり、そして
折々の句会も

蕪村、春の脇の浜に遊ぶ (九分九厘)

2007-08-08 | Weblog
脇の浜(神戸)に遊ぶ「与謝蕪村」

神戸市中央区脇浜町は、このシニア俳句ブログに関わる諸氏が長らく勤めてきた鉄鋼会社の本社が所在するところである。私自身も昭和36年以来40年以上の長きにわたりここを拠点にして働いてきたわけだが、蕪村がこの脇浜に遊んで俳句を作っていたことを知り、興味を持ってこの稿を記することにした。

先ずは脇の浜を中心にした近傍地理を俯瞰してみる。JR三宮の一つ東隣の灘駅を降り、南に三百米程行くと阪神岩屋駅に至るが、そのすぐ南に古い古い「敏馬神社」がある。現在の境内はそれほど大きなものではない。現在の敏馬神社の南側は、高台から急坂の階段が下っていてそのまま鳥居の目の前に大きな国道43号線が走っている。かつては神社の南側はなだらかな丘陵が続き、沖に突き出た岬となっていた。初めて言葉として敏馬なる言が出てくるのは「万葉集」巻三の柿本人麻呂の次の歌である。

 玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島が崎に 舟近付きぬ

この岬の両側が入り江になっていて、東の入江が味泥(みどろ)であり、西の入り江が脇の浜であった。この敏馬の浦は白浜のきれいな美しい浦であり、多くの船が泊る良港であったが、奈良朝の終わりごろから泊の機能は大輪田(兵庫)に移っていく。

味泥から東に向かって住吉に至る間に有名な、西求女塚、処女塚(芦屋の処女/莵原処女の墓)、東求女塚が存在し、この三つの古墳にまつわる万葉時代の伝説が残っている。
脇の浜から西に向かうと、現在の三宮にいたるが、かつての生田川は、布引からJR三宮ガード経由市役所前につながる現在の基幹道路に位置していたのである。明治に入ってから人の手で、川の流れを変え、現在は人工掘削の生田川が布引新幹線駅から真南に向けて走っている。当時の生田神社はもちろん川の傍に位置していた。脇の浜については、この場所を拠点に明治38年に創立した鉄鋼会社の工場拡張の目的で、大規模な入江浜の埋立工事が大正5年から始まり、3年後にはその完成をみている。察するに、敏馬岬はこの時の埋立土砂採取のために消えてしまったのであろう。明治大正にかけて、さらには戦後高度成長期における更なる沖への埋立工事、そして阪神大震災を経てこの地域の変貌も著しいようである。

さて、安永七年(1778年)蕪村(63歳)は一番弟子の几菫を連れて当時兵庫に逃れ住んでいた大魯を訪ねて兵庫に旅をしている。「几菫句稿」にその時の旅程が記載されている。
 3月 9日  夜半翁(蕪村)とともに伏見より昼舟にて浪花に赴く
 3月10日   旧国と三人、網島に遊び、夕暮れ、桜の宮の辺り吟歩する
 3月12日  浪花を出て脇の浜に行く。梅田・・・野田の渡し・武庫川。枝川あなたにて大石の佳則が      浪花に往くにあふ。西宮・住吉・脇の浜。敏馬浦、井筒屋が亭に着く。黄昏。
 3月14日  兵庫着。来屯(きたむろ:大魯の庇護者)の別業に入る。
 3月15日  和田岬、隣松院小集。 席上探題
 3月16日  来屯亭にやどる。戯画
 3月17日  脇の浜に帰る。 画讃
 3月19日  舟にて浪花に帰る。 

10日は網島に遊んだあと、桜の宮の初桜を楽しみ、その晩は心斎橋筋の「平久」に泊る
12日脇の浜に向かう途中、武庫川の支流枝川の辺りで、大阪に向かう大石村在住の俳人佳則と出会う。蕪村はその時の、お互いに逆方向にすれちがうことに興じて、次のような自画讃を書いている。

 敏馬の浦づたいせむと、すずろに道を急ぎけるに、武庫川のほとりにて、佳則子が浪花 に赴くに相逢ふ。旅衣を換ふひまもなく、

  彼は春風に乗じて東へ
  我は落日を望みて西す

    我が影をうしろへ春の行方かな

こうして、蕪村は脇の浜の敏馬に黄昏どきに着き、井筒屋亭に宿泊したのである。現在の敏馬神社のすぐ裏通りは、明治まで賑やかに繁盛した遊郭が並んでいた。この宿泊時に詠まれた句に次のものがある。

 几菫とわきのはまに遊びし時
   筋違(すじかひ)にふとん敷いたり宵の春 (蕪村句集)

几菫と頭を寄せ合いながら、遅くまで語り合ったことであろう。13日は井筒屋に大魯が訪ねて来て三人で歌仙を残している。翌日から兵庫に遊んでいる。17日には脇の浜に帰る。19日は朝から約束の佳則亭で饗応にあずかり、その日のうちに船で大坂に帰るが、その夜大坂の宿屋でひどい下痢に襲われている。蕪村が後で書いた手紙に「扨も京腹へ鮮魚おびただしく給候故か、旅館にて大腹下り」とある。京都人が食べ慣れない魚をたくさんたべたからと、ユーモラスな言い訳をしている。

ついでの話になるが、春の脇の浜に蕪村が遊んだ前の年、すなわち安永六年四月には、神戸布引の滝に行って吟行をしている。

 大魯、几菫などと布引滝見にまかりてかへさ、途中吟
   春(うすづく)や穂麦が中の水車 (蕪村句集)

この水車のあった場所が、今の雲内町あたりから少し南<春日の道>あたりの所と推定すると、この句も楽しいものになって来るようだ。
                                 以上

<敏馬神社に関する補完メモ>
敏馬の名の起こりについては「摂津国風土記」に次のような説話がある。

  神功皇后が新羅を攻めるため、筑紫に遠征するに先立ち、多くの神々を神前(神崎)  の松原にあつめたてまつり、成功を祈願した。ときに能勢郡の美奴売山に住む美奴売  の神が、自分の山の杉の木で船をつくれば成功すると告げたので、皇后はその通りに  して、新羅を降伏させることが出来た。それに報いるために皇后は帰還ののち、この  地を「ミヌメ」と名づけ、美奴売神を祭った。(201年の創建となる)

現在では「敏馬」は「ミルメ」とも呼ばれている。万葉集においては、ミヌメと詠まれていた。古代にミヌメと呼ばれた言葉に、漢字をあてがった経由があるわけだが、敏は漢音でビン、呉音でミンとなるが、ミヌメに敏馬(ミンメ)があてられたものである。後世になって、読みが「ミルメ」にも変わったことについては、決め手になる説はまだ出ていない。「ミルメ」現在では海藻の意をしめし、かつては水の女、水の神を意味していたわけだが、現在のこの神社の祭神は素戔鳴尊(牛頭天王)に変わっているのである。ある時期に流行した祇園信仰の所以と考えられている。「敏馬神社」の呼称は現在なお「ミヌメ」「ミルメ」の呼びかたの両方の説があるが、「敏馬」単独で呼ぶ時、はどうやらミヌメを使うようである。   
                                  
<参考文献> 蕪村伝記考説(高橋庄次/春秋社)
       与謝蕪村  (山下一海/新典社) 
                                 以上
コメント (4)
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