
きたる7月10日は、故斎藤良一様(以下百鬼さん)の三回忌にあたります。これを機に句友百鬼さんと深くつながりのあった私たち三人で思い出を語り合おうとのことになりました。はじめに、それぞれが「偲ぶ」記事を書きます。長い文になりますので、たぶん2回に分けて掲載いたします。その後、10日には追悼句を詠みます。これらの記事をご覧になられる方で、自分も思い出があるとおっしゃられる方は、ぜひ短くてもかまいません、一句なり一文なりお寄せいただくようお願い申し上げます。
(九分九厘、やまもも、ゆらぎ拝)
<斉藤百鬼さんの思い出> (九分九厘)
私が、某ネット俳句に投稿し始めたのが2006年9月からです。それまでは、お試し期間と称して数ヶ月のあいだ添削投稿をしていました。その頃には、既に百鬼さんもネット俳句投稿をされていたと記憶しています。私は俳句を始めたばかりの初心者でしたので、皆さんの投稿俳句に圧倒されていましたが、なかでも私の感性にあう俳諧味のある句が百鬼さんの俳句でした。投稿は、一日置きくらいのハイペースのもので、選句をしてコメントをつける、或はコメントバックのお礼をするという、とても忙しいことになりました。暫くしてから、マイペースで気に入った俳人数人に限ってコメントするようになりましたが、そのうちのお一人が百鬼さんでした。今から考えると、当該ネット俳句会は、日常生活の出来事や景色を写実的かつ象徴的に詠むという、主宰の感性の枠に縛られていたものでした。百鬼さんの句作りと大き乖離があったに違いありません。ほどなくしてネット俳句を止められることになりました。私も同様に、そのあと暫くして止めることになりますが、このネット句会が奇縁となり百鬼さんとの御付き合いが始まります。百鬼さんは「斉藤百鬼の俳句閑日」のブログを開設されました。
”西東三鬼ならぬ百鬼です。どうせなら三匹よりも百匹のほうが景気がいいでしょう”
霜の降る若き身空の六本木 百鬼
これがブログ最初の滑りだしです。以降、俳論・有名人の俳句・百鬼の今日の俳句など、俳句オンパレードのブログでした。特に虚子の客観写生に批判的で、堂々たる俳句に対する持論を展開されました。本物の俳句愛好者です。これに刺激されたのが、俳句素人はだしの私でした。2006年の年末から一年ほどかけて、俳句の歴史を溯りながらの読書三昧をすることになります。俳句そのものの上達など、二の次になっていたのでしょう。今の日、「斉藤百鬼の俳句閑日」のブログを読み返してみると、当時の百鬼さんとのコメントのやり取りに私の真剣さが見て取れます。特に、2007年7月25日の欄には、私の長文の芭蕉に関する引用論考を掲載していただきました。あの頃は、百鬼さんあっての勉強でした。今頃になって、当時の俳句論議への熱の入れ方に自分を褒めています。
百鬼さんはネット句会をご自分で開設され、最初は「ハトッポポ句会」、その後改称して「花水木会」となりました。一番の思い出は2008年9月29日の「ハトッポポ句会第三回」で、はからずも私の句が「地位」となり素晴らしい賞品が自宅に届いたことです。百鬼さんが大好きな俳人<相島虚吼>の自筆の短冊を送っていただきました。ご自分の秘蔵の短冊であったのでしょう。今も大切に我が家の居間に飾ってあります。
梅雨晴れや百姓仕様か字書うか 虚吼
一度、東京新宿で句友ゆらぎさんともに、百鬼御夫婦と夕食をご一緒しました。2008年2月のことです。お会いしたのは後先この時の一回のみですが、不思議なもので旧友にお会いしたような感じでした。隣り合わせの席で夕食を食べながらのフラメンコ鑑賞でした。ジプシーが印度の西辺りに発祥し、それがヨーロッパに流れていくのですが、途中で二つに分かれ、方や東欧に、方やエジプト経由スペイン・ポルトガルまで流れ着くという歴史を、こと細かく解説していただいたことを覚えております。
春愁も旅愁も酔ひにフラメンコ 百鬼
「花水木」が始まって暫くしてから、私の事情から疎遠になりましたが、ブログだけは拝見させていただきました。ブログ最後のご挨拶が次の文で締められています。
”こちらのブログはそのままですので、ここにくればいつでも百鬼さんに会えるわけです。”
百鬼さん追悼にあたり<九分九厘>の好きな句を,十句下記に掲載させていただきます。
心中の黒き縄あり花石榴 百鬼
宦官の一物にも雨桐の花 百鬼
西日背に火宅をくぐる桐の花 百鬼
サスペンダーぱちんと鳴らし秋の朝 百鬼
連衆の名乗り野太き冬の句坐 百鬼
小春日や小春に似たる妻を持ち 百鬼
有馬記念牝馬に賭ける晴ればれと 百鬼
夕暮に術なき吐息紙風船 百鬼
点滴のてんてんと落つ霜降る夜 百鬼
一眼の光消えゆく雪の夜 百鬼
以上
(九分九厘、やまもも、ゆらぎ拝)
<斉藤百鬼さんの思い出> (九分九厘)
私が、某ネット俳句に投稿し始めたのが2006年9月からです。それまでは、お試し期間と称して数ヶ月のあいだ添削投稿をしていました。その頃には、既に百鬼さんもネット俳句投稿をされていたと記憶しています。私は俳句を始めたばかりの初心者でしたので、皆さんの投稿俳句に圧倒されていましたが、なかでも私の感性にあう俳諧味のある句が百鬼さんの俳句でした。投稿は、一日置きくらいのハイペースのもので、選句をしてコメントをつける、或はコメントバックのお礼をするという、とても忙しいことになりました。暫くしてから、マイペースで気に入った俳人数人に限ってコメントするようになりましたが、そのうちのお一人が百鬼さんでした。今から考えると、当該ネット俳句会は、日常生活の出来事や景色を写実的かつ象徴的に詠むという、主宰の感性の枠に縛られていたものでした。百鬼さんの句作りと大き乖離があったに違いありません。ほどなくしてネット俳句を止められることになりました。私も同様に、そのあと暫くして止めることになりますが、このネット句会が奇縁となり百鬼さんとの御付き合いが始まります。百鬼さんは「斉藤百鬼の俳句閑日」のブログを開設されました。
”西東三鬼ならぬ百鬼です。どうせなら三匹よりも百匹のほうが景気がいいでしょう”
霜の降る若き身空の六本木 百鬼
これがブログ最初の滑りだしです。以降、俳論・有名人の俳句・百鬼の今日の俳句など、俳句オンパレードのブログでした。特に虚子の客観写生に批判的で、堂々たる俳句に対する持論を展開されました。本物の俳句愛好者です。これに刺激されたのが、俳句素人はだしの私でした。2006年の年末から一年ほどかけて、俳句の歴史を溯りながらの読書三昧をすることになります。俳句そのものの上達など、二の次になっていたのでしょう。今の日、「斉藤百鬼の俳句閑日」のブログを読み返してみると、当時の百鬼さんとのコメントのやり取りに私の真剣さが見て取れます。特に、2007年7月25日の欄には、私の長文の芭蕉に関する引用論考を掲載していただきました。あの頃は、百鬼さんあっての勉強でした。今頃になって、当時の俳句論議への熱の入れ方に自分を褒めています。
百鬼さんはネット句会をご自分で開設され、最初は「ハトッポポ句会」、その後改称して「花水木会」となりました。一番の思い出は2008年9月29日の「ハトッポポ句会第三回」で、はからずも私の句が「地位」となり素晴らしい賞品が自宅に届いたことです。百鬼さんが大好きな俳人<相島虚吼>の自筆の短冊を送っていただきました。ご自分の秘蔵の短冊であったのでしょう。今も大切に我が家の居間に飾ってあります。
梅雨晴れや百姓仕様か字書うか 虚吼
一度、東京新宿で句友ゆらぎさんともに、百鬼御夫婦と夕食をご一緒しました。2008年2月のことです。お会いしたのは後先この時の一回のみですが、不思議なもので旧友にお会いしたような感じでした。隣り合わせの席で夕食を食べながらのフラメンコ鑑賞でした。ジプシーが印度の西辺りに発祥し、それがヨーロッパに流れていくのですが、途中で二つに分かれ、方や東欧に、方やエジプト経由スペイン・ポルトガルまで流れ着くという歴史を、こと細かく解説していただいたことを覚えております。
春愁も旅愁も酔ひにフラメンコ 百鬼
「花水木」が始まって暫くしてから、私の事情から疎遠になりましたが、ブログだけは拝見させていただきました。ブログ最後のご挨拶が次の文で締められています。
”こちらのブログはそのままですので、ここにくればいつでも百鬼さんに会えるわけです。”
百鬼さん追悼にあたり<九分九厘>の好きな句を,十句下記に掲載させていただきます。
心中の黒き縄あり花石榴 百鬼
宦官の一物にも雨桐の花 百鬼
西日背に火宅をくぐる桐の花 百鬼
サスペンダーぱちんと鳴らし秋の朝 百鬼
連衆の名乗り野太き冬の句坐 百鬼
小春日や小春に似たる妻を持ち 百鬼
有馬記念牝馬に賭ける晴ればれと 百鬼
夕暮に術なき吐息紙風船 百鬼
点滴のてんてんと落つ霜降る夜 百鬼
一眼の光消えゆく雪の夜 百鬼
以上
百鬼さんのネーミングの由来を書いていただきありがとうございました。彼らしいなあ。
”小春日や小春に似たる妻を持ち”
この句、いいですね、しみじみとしたパートナーへの愛情が伝わってきます。 なかなか、こんな句は詠めませんね。飾らず、純粋なお人柄のなせるわざかと
東京新宿での素晴らしい一夜が偲ばれます。百鬼さんの遠来の客への、素晴らしい挨拶の句ですね。ほんとうに、一度神戸へお迎えしたかったですね。蛇足ですが、新宿のお店は「エル・フラメンコ」ではありませんか?ごくごく若いころ、一度行ったことがあります。
新宿の店はまさに「エル・フラメンコ」です。そんなに古い店とは知りませんでした。本場からの芸人が来て、とても迫力がある演技でした。これの印象が強かったので、一昨年スペインに行ったとき、わざわざ劇場に出向き本場のフラメンンコを見てきました。