このところ俳句よりもほかの詩歌のほうに目が向いております。詩も興味深いのですが、これは読む方で、詠ずるのは短歌です。和歌は別として、近代では若山牧水、吉井勇、そして会津八一が好みであります。
”いみじくも与謝の蕪村がしたまひし句三昧よな絵三昧よな” (吉井勇)
”京にきて菩提心もつ子となりぬ鐘の音にも涙こぼるる” (吉井勇)
”薔薇は薔薇の悲しみのために花となり青き枝葉のかげに悩める” (若山牧水》
(友をおもふ歌)
”何事のあるとなけれ逢はざればこころはかはく逢はざらめやも” (若山牧水)
”逢ひてただ微笑みかはしうなずかば足りむ逢なり逢はざらめやも” (若山牧水)
(自注鹿鳴集より)
”おほてら の まろき はしら の つきかげ を
つち に ふみつつ もの を こそ おもへ”” (会津八一)
”あめつち に われ ひとり いて たつ ごとき
この さびしさ を きみ は ほほえむ” (会津八一)
”おし ひらく おもき とびら の あひだ より
はや みへ たまふ みほとけ の かほ” (会津八一)
これらの歌は相当情感が込められていたり、あるいはそのような表現はなくとも、思ひが歌われています。そのような歌が好きな人間なので、私自身の俳句も、いわゆる花鳥諷詠という線よりはかなり逸れていて短歌でいう人事詠に近くなってい ます。
ところで最近短歌を勉強して、すこし詩歌の幅をひろげようとして、いつくかの歌人の本を読んでいます。たとえば岡井隆の『今はじめる人のための短歌入門』という本があ ります。まったくのビギナーを相手にしたような本ですが、その説くところはかなり深 いものがあります。その中で、”好きな歌をいくつも持ち、その歌を心の中に溶け込ま せてしまっているからこそ、その歌の語法であるとか、その歌が骨格としてもっている「型」であるとかについての知識が生きた知識になるでしょう”と言っています。
「型」~定石については茂吉は万葉集巻一の歌を挙げ、繰り返し学ぶことによって、短 歌の調べを自分のものにすることができる、と述べています。その上でのことですが、次に自然詠と人事詠についてのべ、短歌について自然詠から入るのがいいのではないか と言っています。山とか川とか、鳥獣魚介のような自然界の事物にふれて、感じたり、 驚いたり感動したりしたことを人に伝えようとするものであす。この「自然詠」の訓練をした人は後になっても「人事詠」でも大きくのびるように思えるというのです。
現代短歌における自然詠の代表的な作者として佐藤佐太郎を紹介しています。佐藤は斉藤茂吉に師事し、戦後歌壇の第一線を歩んで人で、子規以來の万葉調、写生を基調としています。次の歌は佐藤佐太郎のものですが、自然詠で、こんなに素晴らしい歌が詠め るのだと感嘆しました。
”あじさいの藍につゆけき花ありぬむばたまの夜あかねす昼”
”降りいでて漸くしげき寒の雨なみだのごとき過去が充ちくる”
(最近の気に入った歌)こういうプロの歌を離れて、新聞の歌壇で選ばれた歌をご紹介しましょう。私の好きな歌人のひとり高野公彦、それに佐々木幸綱の選によるものです。
”寒明けのひかりをとざすもどり寒 六花かづきて紅梅覚めず”(大分・岩永知子) 注)六花というのは、雪のことです。
”明けきらぬ東の空の満月を仰ぎバス待つ一月の朝”(愛川弘文)(佐々木幸綱選)
”赤、茜、紅、辰砂、黄、山吹 あまたの色を含みて一葉(ひとは)”(白鳥せい)
(高野公彦選)
”この星の水を湛へてむらさきの儚きものに一個のぶどう”(今村伯水)
(佐々木幸綱選)
”縹(はなだ)から茜に変わる海越しの富士を収める教室の窓”(愛川弘文
高野公彦選)
~おそらくこれは子規の”紫陽花やはなだにかはるきのふけふ”を承けている のでしょう。
”生きている理由を鳥は知っていてかはたれに鳴きたそかれに鳴く”(浅井勝宏)
”音読をすると言霊踊り出し黙読すれば脳を漂う(高野公彦選)
長くなるのでこのくらいにしておきます。色に関した美しい言葉や、言葉遊びしたもの が中心になっていて、眺めていて楽しい歌になっております。補足しますと、じつは、これらの歌は私の親しい友人で詩の好きな友が朝日新聞などの歌壇欄から、好きな歌であるとして選んだものです。そういう意味でバイアスがかかっていますが、私自身も気に入っております。
とりとめもなく書きつづりましたが、みなさんのお好きな歌はありましたでしょうか?
最後に、歌人高野公彦の歌集「天平の水煙」からの一首をご紹介しておきます。この人は日本の懐かしい言葉を意識しながら詠んでいます。
”命日にあらねど歌人小野茂樹のソフトさ言ひて噂供養す”
この小野茂樹は早逝しましたが、こんな素敵な歌を創っていました。
”五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠き電話に弾むきみの声 ”
”いみじくも与謝の蕪村がしたまひし句三昧よな絵三昧よな” (吉井勇)
”京にきて菩提心もつ子となりぬ鐘の音にも涙こぼるる” (吉井勇)
”薔薇は薔薇の悲しみのために花となり青き枝葉のかげに悩める” (若山牧水》
(友をおもふ歌)
”何事のあるとなけれ逢はざればこころはかはく逢はざらめやも” (若山牧水)
”逢ひてただ微笑みかはしうなずかば足りむ逢なり逢はざらめやも” (若山牧水)
(自注鹿鳴集より)
”おほてら の まろき はしら の つきかげ を
つち に ふみつつ もの を こそ おもへ”” (会津八一)
”あめつち に われ ひとり いて たつ ごとき
この さびしさ を きみ は ほほえむ” (会津八一)
”おし ひらく おもき とびら の あひだ より
はや みへ たまふ みほとけ の かほ” (会津八一)
これらの歌は相当情感が込められていたり、あるいはそのような表現はなくとも、思ひが歌われています。そのような歌が好きな人間なので、私自身の俳句も、いわゆる花鳥諷詠という線よりはかなり逸れていて短歌でいう人事詠に近くなってい ます。
ところで最近短歌を勉強して、すこし詩歌の幅をひろげようとして、いつくかの歌人の本を読んでいます。たとえば岡井隆の『今はじめる人のための短歌入門』という本があ ります。まったくのビギナーを相手にしたような本ですが、その説くところはかなり深 いものがあります。その中で、”好きな歌をいくつも持ち、その歌を心の中に溶け込ま せてしまっているからこそ、その歌の語法であるとか、その歌が骨格としてもっている「型」であるとかについての知識が生きた知識になるでしょう”と言っています。
「型」~定石については茂吉は万葉集巻一の歌を挙げ、繰り返し学ぶことによって、短 歌の調べを自分のものにすることができる、と述べています。その上でのことですが、次に自然詠と人事詠についてのべ、短歌について自然詠から入るのがいいのではないか と言っています。山とか川とか、鳥獣魚介のような自然界の事物にふれて、感じたり、 驚いたり感動したりしたことを人に伝えようとするものであす。この「自然詠」の訓練をした人は後になっても「人事詠」でも大きくのびるように思えるというのです。
現代短歌における自然詠の代表的な作者として佐藤佐太郎を紹介しています。佐藤は斉藤茂吉に師事し、戦後歌壇の第一線を歩んで人で、子規以來の万葉調、写生を基調としています。次の歌は佐藤佐太郎のものですが、自然詠で、こんなに素晴らしい歌が詠め るのだと感嘆しました。
”あじさいの藍につゆけき花ありぬむばたまの夜あかねす昼”
”降りいでて漸くしげき寒の雨なみだのごとき過去が充ちくる”
(最近の気に入った歌)こういうプロの歌を離れて、新聞の歌壇で選ばれた歌をご紹介しましょう。私の好きな歌人のひとり高野公彦、それに佐々木幸綱の選によるものです。
”寒明けのひかりをとざすもどり寒 六花かづきて紅梅覚めず”(大分・岩永知子) 注)六花というのは、雪のことです。
”明けきらぬ東の空の満月を仰ぎバス待つ一月の朝”(愛川弘文)(佐々木幸綱選)
”赤、茜、紅、辰砂、黄、山吹 あまたの色を含みて一葉(ひとは)”(白鳥せい)
(高野公彦選)
”この星の水を湛へてむらさきの儚きものに一個のぶどう”(今村伯水)
(佐々木幸綱選)
”縹(はなだ)から茜に変わる海越しの富士を収める教室の窓”(愛川弘文
高野公彦選)
~おそらくこれは子規の”紫陽花やはなだにかはるきのふけふ”を承けている のでしょう。
”生きている理由を鳥は知っていてかはたれに鳴きたそかれに鳴く”(浅井勝宏)
”音読をすると言霊踊り出し黙読すれば脳を漂う(高野公彦選)
長くなるのでこのくらいにしておきます。色に関した美しい言葉や、言葉遊びしたもの が中心になっていて、眺めていて楽しい歌になっております。補足しますと、じつは、これらの歌は私の親しい友人で詩の好きな友が朝日新聞などの歌壇欄から、好きな歌であるとして選んだものです。そういう意味でバイアスがかかっていますが、私自身も気に入っております。
とりとめもなく書きつづりましたが、みなさんのお好きな歌はありましたでしょうか?
最後に、歌人高野公彦の歌集「天平の水煙」からの一首をご紹介しておきます。この人は日本の懐かしい言葉を意識しながら詠んでいます。
”命日にあらねど歌人小野茂樹のソフトさ言ひて噂供養す”
この小野茂樹は早逝しましたが、こんな素敵な歌を創っていました。
”五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠き電話に弾むきみの声 ”