気ままな俳句鑑賞(ゆらぎ)
読んでみてもよく分からない句があります。それには、いろんな理由があります。たとえば日本の古典また東西の文化・文学や歴史的な事象に通じていないことがまず挙げられます。蕪村などの句を読むと、俳句以前に知らなければならぬ、当時の文学的な素養がたくさんあることを思い知らされます。たとえば、有名な”春雨や同車の君がささめごと”にしても、同車やささめごと(私語)を知らないとなんのことかわかりません。”さくらより桃にしたしき小家哉(かな)”、にしたって桃源郷についてのイメージを思いつかない人には、わかりにくいでしょう。最近、某結社のように写生を言い立て、小ぎれいな句を詠んで良しとする風潮がありますが、私には物足りません。もっと古典を大事にし、勉強して詠みたいと思います。古典文学にある歌(和歌)には、本歌取りという遊び心がありますね。現代でも、そのような遊びがあってもいいのではないでしょうか?
前置きが長くなりました。いくつか、わかりにくい句を挙げてみます。
(山口誓子)
”津山冷ゆ石の三鬼に会いに来て”(山口誓子)
俳人西東三鬼の句碑の前で追悼した句。感情を極力抑えて、詠んでいるが、思いが込められてボクは素晴らしい句とことのほか気に入っています。しかし、津山が何なのかどこにあるか、三鬼とは何、と知らない人にはわからないでしょう。
”学問のさびしさに堪え炭をつぐ” (山口誓子)
誓子が東大で法律を勉強していた時の句。だれかが、「学問のきびしさ」とちがうのか、と聞いた人があったそうだ。誓子は、「学問のきびしさは云うまでもない。私はその上にさびしさを詠ったのだ」と答えたそうである。もっとも、それ以前に、炭をつ ぐって なに、ときかれそうである。
(鷹羽狩行)
”水餅にものいうわれの知らぬ妻” (鷹羽狩行)
狩行の自解によれば、水を張った水瓶から、妻が餅をとりだした。その時、なにかつぶ やいたように見えた。水餅は水餅にすぎないが、それに「ものいふ」ということによっ て、なにかある神秘性を感じた、とのことである。さらにいう。「女ごごろは複雑だと いわれる。夫は妻を知り尽くしているのが常識だが、実は知れば知るほど、一人の女性 の内部には、とうてい男には分からない底知れぬものがあるようだ・・・」
ここまで読み取るのは、なかなかむつかしい。
”葛の花むかしの恋は山河越え” (鷹羽狩行)
同じく、狩行の自解によれば。葛の花は、大きな葛の葉に隠れがちで目立たない。それで絢爛たる都人とは違って、それとは対照的な身分が低いと見られた昔の賤の女の恋を思い、その彼女のもとへと葛原を急ぐ賤の男の姿を思い浮かべた、と ある。 この句は 、『古事記』や『萬葉集』の時代には、歩いてあるいは騎馬で野を越え、山を越えて恋人のところに通うということであったのを知らないとわかりにくい。
(『俳句鑑賞450番勝負』(中村裕)より)
6年以上も前のことである。色んな句に触れてみようと、この本を手にした。編集者にしてライターであり、また俳句では三橋敏雄に師事した著者が、「あらかじめ広く俳句の世界を知ることなく、いきなり自分の作品を作り始めるので、その俳句観は偏狭になりがちである」として、多種多様な俳句を先入観なしに味わって欲しいと、明治以降の句450の作品を紹介した労作である。
これを読んだ時の感想として、表紙裏に私見を書き込みました。それを読み返してみると、「本当に様々な句。季語無しもある。解釈を読んでも分からないのが多い。俳人のひとりよがりか。どうでもよいことを面白がっているような批評や解釈もすくなくない」と。まあ、今にして思えば。冷汗三斗。怖いもの知らずでした。そのブログ記事を読んだ、故・斎藤百鬼さんから、軽くたしなめられたことを覚えている。それから、何年も経ち、今年の夏に再読した。そのときの書き込み。「今、改めて読むと、びんびん響いてくる。俳句に対する理解力・抱擁力が変化・拡大したのだ」と。 ということで実力不足からくるわかりにくさがあるのだ。
”行く道のままに高きに登りけり” (冨安風生)
高浜虚子が、”静かに歩を中道にとどめ、騒がず、過たず、完成せる芸術品を打成するのに志している人”、と評したことばのように、彼の生き方を知らないと、この句の良さを感得することは出来ない。
”百日紅ごくごく水を呑むばかり” (石田波郷)
サルスベリは炎天にも萎えず、鮮紅色の鮮やかな色を長く咲かせる。その炎天で喉の渇きを潤したことを、ぶっきらぼうに言い放った句。ぶっきらぼうさが、か えって水の美味さを引き立てている。
まあ、この句はなんとか読み取れるかも。
”海底に山脈ありて鯨越ゆ” (遠山陽子)
鯨が、冬の季語とは知らなかった。海に住む最大の哺乳動物が、海底山脈を越えてゆく雄大な光景である。と、いわれても見た瞬間は、うん? と思った。
”生き堪えて身に沁むばかり藍浴衣” (橋本多佳子)
師である山口誓子の「天狼」に参加したころの句。藍は、使い込み、水を潜れば潜るほど、その色合いを深めていく。多佳子もまた、次々に降りかかる不幸や難題に堪えながら、俳人としての境地を高めていった。そこのところを知っていると、この句の深みを味わうことができる。
”淋しさを許せばからだに当たる鯛” (摂津幸彦)
なんの脈絡もないような句。でも、著者の中村裕は、「淋しさの実質を正しくとらえているように思われる」、と云う。 ふーん?
”号泣やたくさん息を吸ってから” (池田澄子)
著者によれば、「号泣なのだから、そうとうに深刻な事態のはずなのだが、その原因の方へ意識を向けるのではなく、結果である動作に目を向けた訳である。・・・・号泣とて、激しく泣きたければ泣きたいほど、まずはたっぷり息を吸っておかなけれ ばならないのだ。そこに作者は、人間存在の悲しくもおかしい真実を見たのである。」
これはうなずける。分かる。
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と、いうような訳です。みなさんのご鑑賞のほどは如何だったでしょうか? お騒がせいたしました。