忍耐する根性を養う感性もある

2018年04月08日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5-6-3. 忍耐する根性を養う感性もある 
 根性は経験的に身につけていくが、自身の心のうちには、それを周辺から支えるものがある。根性を支えこれを鼓舞する感情等が心の中に存在する。
 敗北すれば、悲しみが生じるが、その苦痛に、泣きながら逃げたり茫然自失となるのでは、忍耐にならない。忍耐し根性を養うような悲しみは、まずは「くやしさ」であろうか。悔しさは、単なる悲しみではなく同時にそこに怒りをもつ。攻撃的闘争的精神がそこにはある。自身の弱さを嘆くと同時に、強くなって次はかならず勝つといった積極的姿勢をもつ。苦難を乗り越えて勝利してやるという闘争精神を、悲しみの涙のもとにもっているのが「くやしさ」であろう。そういう姿勢があれば、苦痛に耐えこれを乗り越えて未来に勝利をという覇気をもち、辛くなると先の敗北を思い出し歯を食いしばって耐えていくことになっていく。おのずと忍耐強い根性ができていくことである。
 似たものに、「憎悪」がある。ここでは、仕打ちをうけて弱者ゆえに仕返しできず、その悔しさ・怒り(攻撃衝動)を心の奥底に押しとどめて耐え続ける。はるかな未来に復讐を誓い、その暗い意志・冷酷な情念の炎を燃やし続ける。その情念貫徹の強さは、すさまじいものがあり、個人の一生を貫くのみか、次の代にまで貫徹されることもある。ただし、これは、復讐という破壊的なものにとどまり、建設的ではないのが普通である。そこに苦難に耐える根性はつくだろうが、それこそ地下の暗いじめじめした陰険な根の性にとどまりそうである。それでも、ときには、公明正大に、世の中の腐敗を「憎悪する」、不正を「憎む」というようなこともなくはない。
 逆に、愛も忍耐の根性をささえ養うものとなりうる。利他の愛は、自身の犠牲をもってなりたつ。その犠牲への忍耐が愛を実現する。辛苦に耐えるほどに、その利他の愛は実ってくる。砂漠での植樹のボランティア(隣人愛)など、厳しい気候に挑戦する青年にしっかりした「根性」を植え付けてくれることであろう。母性愛は、女性を逞しく忍耐力にとむ者へと変えていく。ただし、そのたくましさを根性ということはあまりない。捨身の利他に徹する聖人なども、根性があると形容することは少なかろう。根性には、どこかに泥臭く未熟な我慢(「我」まま・ごう「慢」で強情)のイメージがあるのであろう。

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