痛みは、全心身で反応する感情としては、損傷個所を離れる  

2021年11月02日 | 苦痛の価値論
2-3-1-1. 痛みは、全心身で反応する感情としては、損傷個所を離れる   
 痛みの生じるもとは、傷み・損傷である。基本的には、外からの身体への侵害に危機的な火急の対応をする場面に、痛みは登場する。外的侵害に巧みに対応するには、脳中枢においてこれを統括して諸部位が適切に損傷に対応することが必要である。手が傷をうけても、逃げるのが最適なら、足を動かすことに主力が向かわねばならない。手の損傷でも、全身が緊張して足を逃走にと向けていく。が、まずは、どこが損傷を受けているのかを、痛みをもって知ることになるから、その損傷部位を明確に把握するために、損傷の部位そのものに痛みの感覚をもつことになる。 
 痛みの感覚は損傷の部位に定位し、それに限定されたものとなるが、これとちがい、痛みの感情的な反応の方は、全身の萎縮とか緊張をもっての反応となる。痛みの感覚は痛覚刺激を受動するのみであろうが、その感情は、本来感情は能動的に心身でもって反応することが肝要であるから、感情としての痛みは、全心身で緊張し萎縮し悶えるというような反応をもつことになる。痛みの場合、危機的火急の反応となることであり、瞬時の感情的反応で、痛覚刺激の発生するその損傷の部位に引き寄せられこれに重ねて感じる。痛覚刺激、痛みの感覚は、(脳内に受け入れた痛覚刺激をその生じた部位に投影して)当該の部位に感じるとしても、痛いという感情は、感情が心身全体での反応であるから、萎縮も緊張もその部位ではなく心身全体でするものになる。しかし、痛みの感情的反応は、痛み感覚と同時的に生じることで、損傷の部位に投影される痛み感覚に引き寄せられ、これに重ねて感情も抱く。足が痛くて(感覚)、足が辛い(感情)というようなことになる。
 もちろん、痛いという感情は、損傷の生じている部位に、痛み感覚とひとつになってその反応をもつものではなく、感情としては、心身全体ですることではある。足が痛くても、心身全体で反応して顔でも痛みの感情表現をもつ。痛みの感覚は、損傷の部位にしっかりと固定して感じて、ほかの部分が痛みを感じることはない(心臓の損傷は、肩の痛みとか背中の痛みとなって損傷の部位と一致しないというし、腰の痛みは、腰自体の故障から来るとは限らないというようなことはある)。だが、痛みの感情は、心身全体をもっての能動的な反応となるから、損傷の部位に固定したものではない。足の痛み感覚をふまえつつ、痛みの感情は、全身での拒否的な反応とか悶えとして感じたり、顔面の歪みを痛みの感情表現として自身で意識することもある。損傷した足は、激痛でも、涙は出せない。激痛の足に辛いと涙を出すのは、その感情反応をするのは、この私であり、その表現手段としての目である。
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