ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

晩期資本論(連載第20回)

2015-01-12 | 〆晩期資本論

四 剰余価値の生産(3)

 マルクスは、労働時間の延長によって生み出される絶対的剰余価値と生産効率の向上によって生み出される相対的剰余価値とを区別したうえ、相対的剰余価値生産のための具体的な方法として、協業、分業、機械制工業の三つを歴史的に俯瞰している。現代は工業社会を超えた情報社会とも規定されるが、その情報社会の基底に機械制工業があることに変わりない。

そのほかの労働の生産力の発展がどれでもそうであるように、機械は、商品を安くするべきもの、労働日のうち労働者が自分自身のための必要とする部分を短縮して、彼が資本家に無償で与える別の部分を延長するべきものである。それは、剰余価値を生産するための手段なのである。

 マルクスは発達した機械を動力機、伝導機構、作業機の三つに分けて考察するが、とりわけ作業機の変革に注目している。晩期資本主義を象徴する作業機は電脳(コンピュータ)である。それは単に労働作業を効率化するのみならず、人間の脳を一部代行するまでになっている。

機械は、筋力のない労働者、または身体の発達は未熟だが手足の柔軟性が比較的大きい労働者を充用するための手段となる。それだからこそ、女性・児童労働は機械の資本主義的充用の最初の言葉だったのだ!こうして、労働と労働者とのこのたいした代用物は、たちまち、性の差別も年齢の差別もなしに労働者家族の全員を資本の直截的支配のもとに編入することによって賃金労働者の数をふやすための手段となったのである。

 コンピュータ化は筋力のみならず頭脳をも必要としなくなったため、労働力における性差や年齢差がますます問題にならなくなりつつある。資本が「男女平等」を表面上唱えることの裏にはそうした事情が隠されている。とはいえ、賃金水準における性差は歴然と残されているが、そのからくりは労賃に関する箇所で明かされる。

機械は、労働の生産性を高くするための、すなわち商品の生産に必要な労働時間を短縮するための、最も強力な手段だとすれば、機械は、資本の担い手としては、最初はまず機械が直接にとらえた産業で労働日をどんな自然的限界を越えて延長するための最も強力な手段になる。

 機械は作業効率の向上により時短につながる可能性を持つ一方で、資本家にとっては機械作業によるいっそうの生産力増強への動機を搔き立てるため、かえって労働時間の延長が生じる。しかし労働時間を「どんな自然的限界を越えて延長する」ことは、さすがに現代では労働法によって制限されている。

しだいに高まる労働者階級の反抗が国家を強制して、労働時間の短縮を強行させ、まず第一に本来の工場にたいして一つの標準労働日を命令させるに至ったときから、すなわち労働日の延長による剰余価値生産の増大の道がきっぱりと断たれたこの瞬間から、資本は、全力をあげて、また十分な意識をもって、機械体系の発達の促進による相対的剰余価値の生産に熱中した。

 つまり機械化を促進し、「労働の生産力を高くすることによって、労働者が同じ労働支出で同じ時間により多くを生産することができるようにする」というやり方である。つまり、労働日の延長に対して労働の強化である。

労働日の短縮は、最初はまず労働の濃縮の主体的な条件、すなわち与えられた時間により多くの力を流動させるという労働者の能力をつくりだすのであるが、このような労働日の短縮が法律によって強制されるということになれば、資本の手のなかにある機械は、同じ時間により多くの労働を搾り取るための客体的な、体系的に充用される手段になる。

 マルクスはそうした相対的剰余価値を搾取する手段としての機械の利用法として、機械の速度を速めることと、労働者の作業範囲を拡張することの二つを区別するが、コンピュータ化はその両方法を同時に適用することを可能にした。

・・・大工業の諸部面で異常に高められた生産力は、じっさいまた、他のすべての生産部面で内包的にも外延的にも高められた労働力の搾取をともなって、労働者階級のますます大きい部分を不生産的に使用することを可能にし、したがってまたことに昔の家内奴隷を召使とか女中とか従僕とかいうような「僕婢階級」という名でますます大量に再生産することを可能にする。

 機械化の進歩は熟練労働者を必要としなくなるため、「不生産的な」未熟練労働者への置き換えが進む。労働力の非正規化はそうした流れの究極地点である。反面で、給仕的な労働に従事する者を増やす。マルクスの時代の英国では貴族・ブルジョワの邸宅で雇用される使用人であったが、現代なら各種サービス産業に従事する接客労働者がそれに当たる。

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自由権より社会権を

2015-01-12 | 時評

パリの新聞社銃撃事件は欧州版9・11事件の様相となり、欧州を中心に抗議デモが続いているが、こうしたホームグロウンテロには、デモ隊がスローガンに掲げる「表現の自由」では済まされない根本的な問題が伏在している。

今回の銃撃犯人らは、アフリカの旧フランス領土だったフランス語圏諸国からの移民二世とされるが、かれらは移住労働者として移民してきた第一世代の親を持つフランス育ちの第二世代である。

同じような現象は、欧州諸国全般に見られ、公式には移民受入国ではない日本でも周辺アジア諸国や日系ブラジル人の移住労働者のホームグロウン二世が生まれている時代である。

移住労働者は高度成長が一段落した資本主義先進諸国が、豊かになった自国民の代わりに底辺労働を押し付ける狙いから公式・非公式に受け入れたものだが、現在の欧州では飽和状態に達し、先住国民と競合して雇用を奪う邪魔者となった。

もともと使い捨て労働力の扱いであるから、対等な国民として迎え入れる用意はなく、異教徒の異邦人として事実上社会の周縁に捨てられようとしている。移民から棄民へ。これが二世以下の移民の置かれている状況である。

そうした疎外状況の中で、テロを肯定する過激思想に誘引され、幻想的に“解放”されようとする若者が出てきても不思議はない。移民使い捨てのツケがテロとして回ってきているのである。そのツケを免れようと抑圧的なテロ対策やいっそうの移民排斥で追い込んでいくことは何らの解決策にもならない。

ホームグロウンテロを表現の自由のような自由権の問題に矮小化するのはいかにもブルジョワ的であり、本来は移民の生存権(社会権)の問題である。そうした根本認識に到達しない「表現の自由」擁護デモには、偽善的な臭いすら漂う。

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表現の自由≠挑発の自由

2015-01-11 | 時評

2015年は新年早々からパリで新聞社銃撃大量殺傷事件という嫌な予感のする始まりとなった。フランスをはじめ、欧米では「表現の自由」の擁護を掲げた大規模な抗議デモのうねりが起きている。

たしかに、表現の自由は民主主義の根本である。ただ、今回イスラーム過激派と見られる銃撃者らが標的にしたのは、一般的な新聞社の言論ではなく、風刺専門の新聞社による預言者ムハンマドを風刺する言説であった。

風刺も批判的言論の有力な手段であり、表現の自由の一環であるということは一般論として認められる。しかし、風刺はその内容によって、人を激怒させることもある。その怒りは言論をもって表出すべきだというのも、そのとおりである。

一方で、怒りが暴力的な直接行動の形をとって表出されやすいことも、人間的な経験則のはずである。新聞社銃撃のような形で怒りを表現しようとした犯人らを擁護することはできないが、しかし、第二、第三の同種事件を招いても、「表現の自由」を盾に今後も過激派を激怒させるような風刺を続けるべきだと断言できるだろうか。

自由の行使に責任が伴うことは、表現の自由にあっても同様である。挑発的な表現行為は喧嘩を売るようなもので、それによって激怒した他人の反撃を招く可能性まで十分に熟慮することが、真に責任ある表現者の態度ではないか。その意味では、「表現の自由≠挑発の自由」なのではないか。

もしも第二、第三の事件を防ぐため、軍・警察を大量投入した戒厳状態の中で、イスラーム風刺を続けるのだとしたら、そのような事実上の戒厳令下での「表現の自由」は、真の自由なのかどうか、疑わしいものとなる。

[追記]
報道によると、フランス司法当局は、パリ連続テロ事件の実行犯を擁護するような言動をしたとして、風刺芸人デュドネ氏をテロ礼賛行為の疑いで身柄拘束し、軽罪裁判所で追及する方針を決めたという。テロを挑発する風刺は表現の自由だが、テロを擁護する風刺は軽罪程度の些細なものでも容赦しないという二重の基準は理解し難いものである。

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旧ソ連憲法評注(連載第34回)

2015-01-10 | 〆ソヴィエト憲法評注

第二十一章 検察庁

 本章は、司法と関連の深い行政組織である検察制度について定めている。

第百六十四条

すべての省、国家委員会、官庁、企業、施設、団体、地方人民代議員ソヴィエトの執行処分機関、コルホーズ、協同組合その他の社会団体、公務員および市民による法律の正確で一様な執行にたいする最高の監督は、ソ連検事総長およびそれに従属する検事が行なう。

 ソ連の検察官は単なる公訴官ではなく、このように裁判所を含むあらゆる公的機関、諸団体から市民に至るまでの法律の遵守状況をまさに「検察」する官職であった。

第百六十五条

ソ連検事総長は、ソ連最高会議により任命され、それにたいして責任をおい、報告義務をもち、ソ連最高会議の会期と会期のあいだは、ソ連最高会議幹部会にたいして責任をおい、報告義務をもつ。

 検察権も究極的には最高会議に属するため、検察トップの検事総長の任命権は最高会議にあり、検事総長は最高会議によって監督された。

第百六十六条

連邦構成共和国、自治共和国、地方、州および自治州の検事は、ソ連検事総長が任命する。自治管区検事、地区検事および市検事は、連邦構成共和国検事が任命し、ソ連検事総長の承認をうける。

 連邦構成共和国以下の検察官の任命人事のすべてにソ連検事総長が関わる中央集権的な検察制度であった。

第百六十七条

ソ連検事総長および下級のすべての検事の任期は、五年である。

 ソ連の検察官は強大な監督権を持つ一方で、裁判官と同様に任期制とすることで、一定のバランスを取ろうとしていた。

第百六十八条

1 検察庁の諸機関は、いかなる地方機関からも独立してその権限を行使し、ソ連検事総長のみに従属する。

2 検察庁の諸機関の組織および活動手続きは、ソ連検察庁法が定める。

 検察庁は、ソ連検事総長を頂点に、徹底した中央集権制が採られていた。これも、共産党の一党支配制を法制面で担保する装置となっていただろう。

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旧ソ連憲法評注(連載第33回)

2015-01-09 | 〆ソヴィエト憲法評注

第百五十四条

すべての裁判所における民事事件および刑事事件の審理は合議で行なわれ、第一審裁判所には人民陪席判事が参加する。人民陪席判事は裁判を行なうにあたり、裁判官のすべての権限を行使する。

 建前上は集団討議を重視したソ連では、一人の判事による単独裁判は許されなかった。かつ第一審裁判には必ず素人の人民陪席判事が参加し、しかも職業裁判官と同等の権限を与えられるほど徹底した参審制であった。

第百五十五条

裁判官および人民陪席判事は独立であり、法律のみに従う。

 裁判官の独立に関する規定である。しかし、一党支配制の下では、共産党の方針に反する裁判は事実上あり得なかったので、この規定は空文に近い。

第百五十六条

ソ連における裁判は、法律と裁判所にたいする市民の同権の原理にもとづいて行なわれる。

 建前上は司法における法の下の平等の表れであるが、ここでも一党支配制の中で、司法をも超越する特権的な党幹部を頂点とするヒエラルキーが形成されており、本条も多分にして形骸化していただろう。

第百五十七条

すべての裁判所における事件の審理は公開で行なわれる。非公開の法廷における事件の審理は、法律の定める場合にかぎり許され、すべての訴訟規則を遵守して行なわれる。

 公開裁判の原則を定める規定であるが、第二文で例外的に非公開裁判が認められる場合や要件を法律に一任しているため、とりわけ政治犯に対する裁判は非公開の不公正な裁判となりやすいという問題があった。

第百五十八条

被疑者および被告人は、防御権を保障される。

 刑事事件の被疑者、被告人の防御権に関する規定であるが、具体性を欠く形式的な規定にすぎない。

第百五十九条

訴訟は、連邦構成共和国、自治共和国、自治州もしくは自治管区の言語またはその地域の住民の多数がつかう言語で行なわれる。訴訟の参加者で、使用される言語を知らない者は、事件の資料を十分に知る権利、すなわち通訳をとおしての訴訟への参加および裁判所で自国語をつかう権利を保障される。

 多民族・多言語国家ソ連ならではの多言語対応裁判に関する規定である。外国人でも通訳を通しての訴訟参加や法廷での自国語の使用が憲法上の権利として認められているのは、前条の防御権の保障の一環とも言え、先進的ではあった。

第百六十条

いかなる者も、裁判所の判決により、かつ法律にのっとらないかぎり、犯罪の実行について有罪とならず、刑罰を科せられない

 無罪推定原理を憲法上明確にした本条は先進的であったが、刑罰ではない保安上の強制措置については適用がない点で、脱法の余地が残されている。

第百六十一条

1 市民および団体にたいする法律的援助は、弁護士会が行なう。法令の定める場合、市民にたいする法律的援助は無料である。

2 弁護士の組織および活動手続きは、ソヴィエト連邦および連邦構成共和国の法令が定める。

 法律的援助に関する規定が憲法上に置かれているのも、先進的ではあった。しかし弁護士自治の原則はなく、弁護士も究極的には共産党の方針の範囲内で活動しなければならなかった。

第百六十二条

社会団体および労働集団の代表は、民事事件および刑事事件の訴訟に参加することができる。

 集団訴訟を可能とするため、社会団体や労働集団そのものに訴訟当事者の適格性を付与する先進的な規定であった。

第百六十三条

1 企業、施設および団体間の経済紛争は、国家仲裁機関がその権限の範囲内で解決する。

2 国家仲裁機関の組織および活動手続きは、ソ連国家仲裁機関法が定める。

 社会主義体制には私的自治原則がなかったため、経済紛争の司法外処理も、代理人弁護士を立てた交渉や法廷闘争によるのではなく、国家仲裁機関が介在して公的に解決された。

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旧ソ連憲法評注(連載第32回)

2015-01-08 | 〆ソヴィエト憲法評注

第七編 裁判、仲裁および検察

 本編は、表題のとおり、広義の司法に関する規定が収められている。ソヴィエト制の下では、司法権も究極的には人民代議員ソヴィエトに属する。

第二十章 裁判所および仲裁機関

第百五一条

1 裁判所における裁判は、裁判所だけが行なう。

2 ソ連における裁判所は、ソ連最高裁判所、地方、州及び市の各裁判所、自治州裁判所、自治管区裁判所、地区(市)人民裁判所ならびに軍の軍法会議である。

 司法権の根源がソヴィエトにあるとはいえ、裁判の専門性や独立性からして、ソヴィエト自らが裁判機関となることはなく、裁判はブルジョワ憲法と同様、各級/種裁判所に委ねられた。

第百五十二条

1 ソ連におけるすべての裁判所は、裁判官および人民陪席判事の選挙の原則にもとづいて構成される。

2 地区(市)人民裁判所判事は、普通、平等、直接選挙権にもとづき、秘密投票により、地区(市)の市民によって、五年の任期で選挙される。地区(市)人民裁判所の人民陪席判事は、勤務場所または居住地ごとの市民の集会において、公開投票により、二年半の任期で選挙される。

3 上級裁判所は、対応する人民代議員ソヴィエトにより、五年の任期で選挙される。

4 軍法会議の裁判官は、ソ連最高会議幹部会により、五年の任期で選挙され、その人民陪席判事は、軍勤務員集会において、二年半の任期で選挙される。

5 裁判官および人民陪席判事は、選挙人または自分を選挙した機関にたいして責任をおい、報告義務をもち、法律の定める手続きにより、これらによってリコールされる。

 ソヴィエトの全裁判官は、選挙により選出され、かつリコールの対象にもなるという形で、ブルジョワ憲法よりも司法の民主化が徹底されていた。中でも、一般市民の中から選出される人民陪席判事の制度は、一種の参審制ではあるが、素人を正規の裁判官として扱うより民主的な制度であった。
 とはいえ、ここでも共産党支配が前提であるため、実際に選挙される裁判官は党員ないし党が公認する人物に限られており、「民主司法」も建前にすぎなかった。

第百五十三条

1 ソ連最高裁判所は、ソ連の最高裁判機関であり、ソ連の裁判所の裁判活動の監督を行ない、法律の定める範囲内において、連邦構成共和国の裁判所の裁判活動の監督を行なう。

2 ソ連最高裁判所は、ソ連最高会議により選挙される長官、副長官、所員および人民陪席判事により構成される。連邦構成共和国最高裁判所長官の職にある者は、ソ連最高裁判所の構成員となる。

3 ソ連最高裁判所の組織および活動手続きは、ソ連最高裁判所法が定める。

 本条は最高裁判所の任務・組織について定めている。人民陪席判事が最高裁にも参加するのが特色である。また構成共和国最高裁判所長官がソ連最高裁判事を兼職することで、ソ連最高裁の判決に構成共和国司法府の意向も反映されるように配慮されていた。
 しかしソ連最高裁は司法行政に限らず、全土の裁判所の裁判活動の監督権を掌握していたため、最高裁を介して共産党の方針が下級審裁判にも反映され、党が司法まで支配できる仕掛けとなっていた。

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スウェーデン憲法読解(連載第9回)

2015-01-04 | 〆スウェーデン憲法読解

第二章 基本的自由及び権利(続き)

第二三条

1 表現の自由及び情報の自由は、国の安全、物資の全国的な供給、公共の秩序及び安全、個人の名誉、私生活の不可侵又は犯罪の予防及び訴追の観点から、制限することができる。さらに、商取引活動における表現の自由を制限することができる。その他、表現の自由及び情報の自由の制限は、特別かつ重要な理由により制限する場合にのみ、実施することができる。

2 第一項の規定に基づいていかなる制限を実施することができるかについての判断に際して、政治的、宗教的、職業的、学術的及び文化的事項に関して、表現の自由及び情報の自由を最大限保障することの重要性について注意を払わなければならない。

3 表現の内容にかかわらず、表現を伝播し、受け取る方法を詳細に規制する規定を定めることは、表現の自由及び情報の自由の制限とはみなされない。

 本条はスウェーデン憲法が最も重視する表現の自由及び情報の自由の制限について、特に取り出し、その制限の範囲を限定する規定である。第二〇条及び二一条の一般的な人権制限にさらに縛りをかける周到な規定である。
 ただ、第三項で表現の伝播、受領の方法を規制することを表現の自由及び情報の自由への制限とみなさないとするのは、そうした手段的な規制を通じて表現・情報発信行為を制約できる可能性を考えると、やや危惧も認められる。

第二四条

1 集会の自由及び示威運動の自由は、集会若しくは示威運動の際の秩序及び安全又は交通の観点から制限することができる。その他、これらの自由は、国の安全又は伝染病の予防のためにのみ制限することができる。

2 結社の自由は、その活動が軍事的なもの若しくは類似の性格を有するものである結社又は民族的出自、皮膚の色若しくは他の類似の条件を理由とした民族集団の迫害を目的とする結社に関する場合には、これを制限することができる。

 本条第一項は、表現の自由の延長である集会・デモの自由について、前条と同様に特に取り出して、その制限に絞りをかける規定である。
 それに対して、第二項は結社の自由に関し、軍事的ないし準軍事的結社、人種・民族差別的な結社については、これを制限し、取り締まれるようにする規定である。テロや武装反乱の防止及びスウェーデン憲法が重視する反差別の観点からの結社規制である。
 なお、第二項によれば、武装革命を目的とするプロレタリア結社も規制することが可能となる。これは、スウェーデンがプロレタリア革命を否定する社民主義的な志向性を持つことの反映である。

第二五条

1 スウェーデン市民以外の者に対しては、国内において、法律により、次の各号に掲げる自由及び権利について、特別に制限することができる。

一 表現の自由、情報の自由、集会の自由、示威運動の自由、結社の自由及び宗教の自由(第一条第一項)

二 意見を明らかにすることを強制されることに対する保護(第二条第一文)

三 第四条及び第五条に規定するものとは別の場合における身体への侵害、身体検査、家宅捜索及び類似の侵入、内密の送付物及び通信への侵害並びに個人の私的事情の監視及び調査を含む侵害に対する保護(第六条)

四 自由の剥奪に対する保護(第八条第一文)

五 犯罪又は犯罪の疑いとは別の理由による自由の剥奪について裁判所の審理を受ける権利(第九条第二項及び第三項)

六 裁判所の審理の公開(第一一条第二項第二文)

七 著作家、芸術家及び写真家の自らの作品に対する権利(第一六条)

八 商取引を行う権利又は職業活動を遂行する権利(第一七条)

九 研究の自由(第一八条第二項)

一〇 意見を理由とする権利制限(第二一条第三文)

2 第一項に規定する特別な制限に関する規定については、第二二条第一項、第二項第一文及び第三項の規定を適用しなければならない。

 本条は外国人の人権に対する制限を定めているが、計10項目の人権に絞って制限の対象とし、その制限法の議会手続きは国民の人権制限の場合に準じる。
 とはいえ、表現の自由をはじめかなり広範囲な人権が制限されることになり、ここには「国民の家」という理念の下に福祉国家体制を維持してきたスウェーデンの国民優先政策が現れている。

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スウェーデン憲法読解(連載第8回)

2015-01-03 | 〆スウェーデン憲法読解

第二章 基本的自由及び権利(続き)

欧州人権条約

第一九条

法律又は他の法令は、人権及び基本的自由の保護のための欧州条約に基づくスウェーデンの義務に反する規定を設けてはならない。

 本条は、欧州人権条約の遵守を宣言する規定である。これは、次条以下に定める基本的人権の制限が欧州人権条約に反することのないようにする歯止め規定の意味もある。

自由及び権利の制限のための条件

第二〇条

1 次に掲げる自由及び権利は、第二一条から第二四条までの規定において認められた範囲内で、法律により制限することができる。

一 表現の自由、情報の自由、集会の自由、示威運動の自由及び結社の自由(第一条第一項第一号から第五項まで)

二 第四条及び第五条以外の身体的侵害に対する保護、身体検査、家宅捜索及び類似の侵入に対する保護、内密な送付物及び通信への侵害に対する保護並びに他の私的事情の監視及び調査を含む侵害に対する保護(第六条)

三 移動の自由(第八条)

四 裁判所の審理の公開(第一一条第二項第二文)

2 法律における許可の後、第一項に掲げる自由及び権利は、第八章第五条に掲げる場合[評者注:政令に委任される場合]及び公共の役務において、又は役務義務の遂行中に知り得たことを明らかにすることに対する禁止に関する他の法令により、制限することができる。同様の方法において、集会の自由及び示威運動の自由は、第二四条第一項第二文の規定に掲げる場合[評者注:国の安全・伝染病の予防]にも制限することができる。

 本条以下では、法律によって制限がかかる自由及び権利の種類とその根拠、限界、さらに議会手続きまでを総まとめしている。このような規定の仕方は、日本国憲法のように「公共の福祉」という包括的な文言で人権制限を課すやり方よりも、具体的で明確と言える。

第二一条

第二〇条の規定に基づく制限は、民主的社会において受け入れられる目的を満たしていることを理由としてのみ、実施することができる。当該制限は、制限するに至る目的に照らして必要である範囲を超えてはならず、民主的社会の一つとしての自由な意見形成に対する脅威となるほど長期間にわたって延長されてはならない。単に政治的、宗教的、文化的又は他の同様の意見を理由とする当該制限は、実施されてはならない。

 基本的自由の制限に対して、目的と手段の双方で、限界を設定し、かつ時間的にも時限法であることを要求している点で用意周到である。さらに、第二文では特定の意見を理由とする人権制限を禁止することで、スウェーデン民主主義の基礎とされる意見の自由を擁護している。

第二二条

1 第二〇条の規定に基づく法案は、議会により拒否されない限り、一〇名以上の議員の要求に基づき、当該法案に対する委員会による最初の意思表明が本会議に報告されたときから、一二か月以上未決としなければならない。ただし、投票者の六分の五以上が決定を承認した場合には、議会は、当該法案を直ちに採択することができる。

2 第一項の決定は、最長二年継続して効力を有する法律の法案については、適用されない。また、次の各号に掲げる事項のみを規定する法案についても適用されない。

一 公共の役務において、又は役務義務の遂行中に知り得たことで、その秘密を保持することが出版の自由に関する法律第二章第二条に掲げる利益[評者注:公文書アクセス権を制限する公益]に関して必要であるものを明らかにすることの禁止

二 家宅捜索又は類似の侵入

三 ある一定の行為の結果としての自由刑

3 憲法委員会は、ある一定の法案について第一項の規定が適用されるか否かについて議会を代表して審査する。

 本条は、基本的人権を制限する法律については、議会手続きにも制限を置き、発案者数に最低条件を課しつつ、拙速審議を避けるため、原則として本会議への報告から最低一年間の考慮期間を置くこととしている。ただし、これには第二項で所定の例外が定められており、スウェーデンの実際主義的な一面がここにも現れている。
 第三項により本条の制限をかけるべきかどうかを判断する憲法委員会とは、憲法問題を所管する議会常任委員会である。

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年頭雑感2015

2015-01-01 | 年頭雑感

昨年の漢字に選ばれたのは、「税」であった。「税」が選ばれたのは、言うまでもなく消費増税に絡めてのことである。消費税は現代資本主義国家においてはよくある間接税であり、増税派が引き合いに出すように、欧州では20パーセント前後の税率は常識となっている。

ただ、欧州型消費税は正式には付加価値税と呼ばれ、商品の付加価値に課税するという仕組みが明確であり、納税義務者も末端消費者ではなく、付加価値を生み出す事業者(資本家)である。厳密には一致しないが、マルクス的に言えば資本家が賃労働者を使って生みだす剰余価値に課税する雇用者税の一種となっている。そのため、広く薄く課税するのではなく、付加価値が低い品目では税率軽減ないし非課税とされる。

しかし、日本では付加価値税と呼ばず、端的に消費税と呼ぶのは、納税義務者ではない末端消費者が商品を購入するつど一律に負担するまさしく消費行為にかかる税となっているからである。末端消費者の多くは一般労働者であり、商品の購入費は賃金を原資とすることが多いことを考えると、日本の消費税は理論上間接税でありながら、所得税とは別途、賃金から徴収する直接税的な機能を持っていることになる。

この点で、日本型消費税と欧州型付加価値税は、原理的な同一性にもかかわらず、異質の税制とみなしてよいであろう。日本型消費税は大衆からの収奪的性格が強いのに対し、欧州型付加価値税は資本に対する抑制的な性格が強い。

ただし、欧州型でも事業者の価格転嫁により、商品の価格が高騰し、欧州は全般に物価高となりやすく、低所得層の暮らしは厳しいものとなる。消費のつど収奪されても、比較的物価が抑えられている日本のほうがまだ暮らしやすいという側面もあろう(反面、零細事業者の価格転嫁が困難)。

とはいえ、賃金抑制の時代の消費増税は暮らしを直撃する。それでも、増税政権が選挙で勝利した。しかし、投票率は戦後最低の約50パーセント、つまり半数の有権者が集団的に棄権した。政権の宣伝機関と化したマス・メディアはその事実から目を背け、「圧勝」という見かけの数字だけ強調するが、戦後最大規模の棄権には政治的に象徴的な意味があるのだ。

さて、日本国内では「税」がキーワードとなった昨年であるが、世界ではおそらく「戦」であろう。シリア、イラク、リビア、ウクライナなどの「戦」はすべて今年に持ち越しである。そして、今年も目覚しい進展は望めまい。

世界が金儲けに狂奔し、マネーゲーム以外のことには二次的以下の関心しか抱かなくなっている。遠い国の「戦」より目先の「金」。そういう意味では、世界のキーワードは「金」かもしれない。悲観的ながら、2015年もそんな年となるだろう。

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