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表現の自由≠挑発の自由

2015-01-11 | 時評

2015年は新年早々からパリで新聞社銃撃大量殺傷事件という嫌な予感のする始まりとなった。フランスをはじめ、欧米では「表現の自由」の擁護を掲げた大規模な抗議デモのうねりが起きている。

たしかに、表現の自由は民主主義の根本である。ただ、今回イスラーム過激派と見られる銃撃者らが標的にしたのは、一般的な新聞社の言論ではなく、風刺専門の新聞社による預言者ムハンマドを風刺する言説であった。

風刺も批判的言論の有力な手段であり、表現の自由の一環であるということは一般論として認められる。しかし、風刺はその内容によって、人を激怒させることもある。その怒りは言論をもって表出すべきだというのも、そのとおりである。

一方で、怒りが暴力的な直接行動の形をとって表出されやすいことも、人間的な経験則のはずである。新聞社銃撃のような形で怒りを表現しようとした犯人らを擁護することはできないが、しかし、第二、第三の同種事件を招いても、「表現の自由」を盾に今後も過激派を激怒させるような風刺を続けるべきだと断言できるだろうか。

自由の行使に責任が伴うことは、表現の自由にあっても同様である。挑発的な表現行為は喧嘩を売るようなもので、それによって激怒した他人の反撃を招く可能性まで十分に熟慮することが、真に責任ある表現者の態度ではないか。その意味では、「表現の自由≠挑発の自由」なのではないか。

もしも第二、第三の事件を防ぐため、軍・警察を大量投入した戒厳状態の中で、イスラーム風刺を続けるのだとしたら、そのような事実上の戒厳令下での「表現の自由」は、真の自由なのかどうか、疑わしいものとなる。

[追記]
報道によると、フランス司法当局は、パリ連続テロ事件の実行犯を擁護するような言動をしたとして、風刺芸人デュドネ氏をテロ礼賛行為の疑いで身柄拘束し、軽罪裁判所で追及する方針を決めたという。テロを挑発する風刺は表現の自由だが、テロを擁護する風刺は軽罪程度の些細なものでも容赦しないという二重の基準は理解し難いものである。


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