第1章 労働運動の発達
3:持続的労働組合の結成
チャーティスト運動は英国労働者階級を政治的に覚醒させる大きな契機となった反面、この時代の労働組合の活動は低調であり、労働者は専ら政治的な活動に没頭していた。
後の英国労働党の基盤となる持続的な労働組合の結成は、チャーティスト運動の収束後、1860年代のことであった。今日でもスコットランドと北アイルランドを除く英国最大の労組ナショナルセンターである労働組合会議(TUC)が1868年に結成される。その直接的な前身は66年にイングランド中部シェフィールドで印刷工ウィリアム・ドロンフィールドを中心に結成された英国組織労働連盟であった。
鉄鋼業の都市シェフィールドが発祥地となったのは、この地の鉄鋼労働者の労働条件の悪さが60年代に一部の過激な労組活動家による連続爆弾事件を引き起こしたことが契機となった。こうした過激主義には否定的であったドロンフィールドは理論的な面でも、労組合法化と労組の全国組織化の主唱者として活動した。
この頃になると、労働運動の過激化を恐れるリベラルなブルジョワ階級の間でも労組合法化への理解が広がり、そのことが67年の労働組合に関する王立委員会の設置と、その答申に基づく71年の労組合法化へとつながる。
こうして法的な根拠も得て、英国の労働組合の活動は活発化するが、合法化以後の労組は未熟練労働者を含めた広範な労働者を結集し、理念的にも社会主義的な方向性を強めていく。一方で戦闘性は薄れ、ストのような直接行動のみならず、平和的な交渉や教育、法制度への関心を強める。このことは、必然的に議会政治の枠内で労働者階級を代表する新党結成への要請につながっていったであろう。
4:フェビアン協会の設立
労働党結成の運動的な基盤が労組であったとすれば、理論的な基盤は1884年にロンドンで設立された社会主義団体フェビアン協会であった。本協会は当初、詩人のエドワード・カーペンターやトマス・デヴィッドソンらによって設立され、後に劇作家のバーナード・ショーもメンバーに加わった人文主義的色彩の強い組織として出発する。
しかし、間もなく協会の理論的指導者となるシドニーとベアトリスのウェッブ夫妻のような社会科学者も参画し、具体的な改革課題を掲げた左派の政策集団的な組織に成長する。特にシドニー・ウェッブが創立者となったロンドン経済学院はその理論拠点となり、後に労働党の事実上のシンクタンク的な存在となる。
このグループの特徴は防御的な持久戦で名高い古代ローマの将軍ファビウスに由来する名称のとおり、革命ではなく、労働法制や社会保障などの漸進的な社会改革によって資本主義的な社会経済を改良していく穏健主義にあり、革命的なマルクス主義とは対立的とは言わないまでも、対照的であった。
ロンドンでは、まさにマルクス本人が長く盟友エンゲルスとともに亡命生活を送り、最終的に両人とも英国に骨を埋める―エンゲルスは海洋散骨―ことになったのであるが、彼らは外国人であったこともあり、英国ではマイナーな存在にとどまり、むしろ祖国ドイツやフランス、ロシアなど海外に影響を広げていったのに対し、英国ではフェビアン協会が有力となった反面、マルクス主義は一貫して極少数派であった。
そのため、英国では大陸諸国の左派におけるように、革命的なマルクス主義と後の社会民主主義に連なる社会改良主義の対立という大状況がそもそも起こり得ず、左派はフェビアン主義やそれに近い穏健主義で固まっていくという独異な状況が生じた。このことも、共産党を抑えて労働党が大政党化する土壌を作った。
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