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沖縄/北海道小史(連載第9回)

2014-01-20 | 〆沖縄/北海道小史

第四章 強制的近代化の時代(続)

【11】北海道開拓と同化・隔離
 1868年、明治維新が成ると北海道の旧松前藩領には当初、館藩が置かれた。館藩知事には、箱館に来襲した榎本武揚の旧幕府派軍勢によっていったんは津軽に追われていた旧松前藩主の松前家が復権する形で就任した。
 しかし71年、廃藩置県により館藩は2年ほどで廃藩となり、松前家の北海道支配も完全に終焉する。館藩はいったん館県となった直後、本州側の弘前県に合併された。他方で、明治新政府は北方開拓のため、69年という早い時期に開発行政機関として開拓使を設置し、旧エゾ地の開拓に着手していた。
 72年には北海道全域が開拓使の管轄下に編入され、北海道開拓が本格化する。特に74年から開拓使廃止直前の82年まで開拓長官の座にあった後の内閣総理大臣・黒田清隆の時代に、北海道開拓の基礎が築かれた。
 そこでの基本方針は明治維新政府の大方針である近代化ということに尽きるが、その手段として処女地・北海道では本州から移民を導入して、まずは農業開発に当たらせるという方法が採られた。同時に、北辺防備策を兼ねて屯田兵制度を創設し、本州から旧武士層の士族を授産を兼ねて屯田兵として移入させた。
 こうした北海道移民は全国規模に及び、再び中世の渡党以来の和人勢力移住の波が起きたわけだが、今度のそれは中央政府の政策によって移入された農業者である点、その移入人口が大量だった点に大きな違いがある。
 明治政府の北海道農業開発は当初、寒冷気候を考慮して大規模畑作が目指されたが、明治中期になると品質改良などの技術進歩により、江戸時代にはほとんどできなかった米作が発達し、明治末期には官民一体での米作開発が推進された結果、北海道は全国有数の米作地帯となる。
 平行して資源開発も推進された。中でも石狩と釧路を二大拠点とする石炭産業は長く北海道の主産業であり続け、下って昭和前期以降は金・銀・銅・鉛・亜鉛などの鉱業開発も進んだ。工業の面では、ビール製造に始まり、製紙、造船、製鉄などが順次発達し、それに伴う建設業の発展も見られ、北海道は勃興してきた近代資本にとっても広大な草刈場となるのである。
 初期の北海道における資本労働は、屯田兵の労力を補うものとして導入され、多くの犠牲を出した囚人労働が中止された後、いわゆるタコ部屋労働によって展開され、女工労働と並び、劣悪な搾取労働の象徴となった。また時代下って、日露戦争で勝利した日本が北洋漁業の権益を獲得すると、工場を兼ねた水産加工船が導入され、小林多喜二の『蟹工船』で取材されたような過酷な搾取労働が横行した。
 こうした明治政府の北海道開拓の裏には、処女地・北海道を「内なる植民地」として開発するという理念があった。それは同時に、旧エゾ地の住民であるアイヌに対する強制同化・隔離政策を伴っていた。
 同化政策はすでに幕末の幕府直轄統治時代に先鞭がつけられていたが、なお不徹底であった。開拓使が廃止された後、86年に北海道庁が設置されると、アイヌに対しては固有文化を抑圧する同化とともに、強制移住のような隔離も強化された。そうしたアイヌ政策の基本法として99年には北海道旧土人保護法が制定された。
 この法律に顕現した政府の対アイヌ政策は、授産・医療・教育などの面での一定の「保護」と引き換えに、アイヌ固有の土地や伝統文化を剥奪・制限するという両義的なものであり、アイヌを少数民族そのものとして保護するという趣旨のものではなかった。従って、学校教育は日本人と別枠の隔離教育とされた。こうしてアイヌ民族社会が崩壊する中、かれらは日本人道民から隔離された被差別民族として周縁化されていった。
 このような政策の下、北海道の日本化・近代的開発が大きく進展していく一方で、中央政府のアイヌ政策が表面上は民族回復へと転換された現代に至ってもなお容易に抜き難いアイヌに対する差別が構造化されていくのである。

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