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メディア死亡元年

2015-04-15 | 時評

日本式の「新年度」も二週間を過ぎて、マスメディアの世界でも今年の流れが見えてきた。その傾向をひとことで言えば、メディア・クレンジング(media cleansing)である。すなわちマスメディアがある意味で「浄化」されてしまい、従来細々と保持されていた「権力監視」の役割を放棄してしまったということである。

特にテレビは深刻で、スイッチを入れれば、芸人の顔、顔、顔である。脇に追いやられている報道番組もニュース棒読み、もしくは論評抜きの「解説」のみ、選択されるニュースも当たり障りのない発表ものを各社横並びで―完全同時のことも―報じている状況である。

こうしたメディア・クレンジングは、戦前のような検閲制度の結果起きていることではない。検閲制度は、現在も憲法で明確に禁じられている。現今のメディア・クレンジングは、非公式の「圧力」とそれに呼応したメディアの「自主規制」によって起きている。

検閲制度は非民主的とはいえ、公式の行政処分として記録に残るが、非公式の圧力‐自主規制の場合は闇で行われ、記録に残らない。民主主義の看板の裏でこっそり行われるという点では、検閲制度よりもたちが悪い。

さらに深刻なのは、一般大衆もメディア・クレンジングの現状を受け入れる用意がすでにできていることである。かねてより、特に「視聴率」至上のテレビでは「真面目な」番組の排除、芸能バラエティ番組の増量が顕著であったが、これは社会的無関心の広がりとも対応している。

就学率が高い日本で社会的無関心が定着しているのは、学校教育の一つの「成果」としか考えられない。社会的な問題、国際的な問題に対して無関心になるよう仕向けられるある種の「漂白」教育が行われてきたことの結果である。この傾向は近年の教科書統制によりいっそう強まることだろう。

わずかな救いは、現今のメディア・クレンジングが主としてテレビを中心とした主流マスメディアの領域で起きていて、インターネットを含めたメディア全般にはまだ及んでいないことである。

しかし、安心はできない。政府は安倍政権の「歴史修正主義」を取り上げたドイツ大手紙の記事に対して、現地総領事館を通じて激しく抗議したり、執筆記者をたびたび呼び出すなどの「圧力」を加えていたという報道がなされている(日刊ゲンダイ)。

この一件は、政権が紙媒体―それも外国の―にまで目を光らせ始めている兆候を示している。同時に、辛うじてこれを報じた日刊ゲンダイのような国内の周縁メディアにはまだ直接の「圧力」は及んでいないことも示している。

こうしたメディア・クレンジングは決して安倍政権下での特異現象ではなく、野党の断片化現象の中で自民党の一党支配体制が進行するにつれ、さらに強化されるものと予測される。この悲観的予測を覆すような好材料は見当たらない。その意味で、今年2015年は後世振り返って「メディア死亡元年」として記憶されるだろう。


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