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貨幣経済史黒書(連載第26回)

2019-10-27 | 〆貨幣経済史黒書

File25:オイルショック

 資源史の観点から見ると、第二次世界大戦後は「石油の時代」と言える。当初、石油利権を独占していたのは、七つの石油開発多国籍資本であった。この寡占企業体による国際カルテル体制下で原油価格は安定し、石油の取引と供給は円滑に行なわれていた。
 石油資本寡占体制の恩恵を最も受けたのは、第二次大戦の戦禍からの復興とそれに続く高度経済成長の資源的土台として石油をフル活用した欧州や日本であった。他方、産油諸国はほとんどが新興の途上国であったが、かれらの分け前は利権の半分程度という状況で、経済開発の土台としては不充分であった。
 ところが、1950年代以降、中東で新たな油田が続々と発見・開発されると、石油の供給過剰が生じ、国際石油資本は原油公示価格の引下げを一方的に決定した。このような非対称・不平等な石油市場に対し、産油諸国の反発は高まり、1960年、産油諸国による利権防衛機構として石油輸出国機構(OPEC)が結成された。  
 OPECはさしあたって、国際石油資本との協議を通じて原油価格を有利に決定する権利を獲得したが、産油国はそれだけでは満足せず、石油掘削権の獲得から、さらに社会主義的な指向のもとに油田そのものの国有化へと向かい始めた。  
 こうした流れの渦中、1973年にイスラエル‐アラブ諸国間で第四次中東戦争が勃発した。これを機に、OPECはまず原油価格の70パーセント引き上げ、続いて減産と禁輸、さらなる130パーセントにも及ぶ第二弾の原油価格引き上げという連続措置を打ち出した。  
 これは経済情勢を考慮した対応というよりも、多分にしてイスラエル支持の欧米諸国への制裁という政治的意図に基づく政治的措置であった。ついに、石油は政治の道具と化したのであった。  
 こうして惹起された石油価格の暴騰と逼迫は、オイルショックと呼ばれる国際的なインフレーション危機を惹起した。とりわけ、日本では「狂乱物価」と評されるような異常なインフレーションへ向かった。  
 すなわち、1974年には消費者物価指数で上昇率23.2パーセントを記録するとともに、物資不足の風評によるトイレットペーパー等の買占め騒動という経済心理パニックまで付随した。戦後日本では初となるある種の恐慌現象であった。  
 日本の突出したインフレの要因がオイルショックによるものかどうかは経済専門家の間で論争されたが、いずれにせよ、マクロ的にも、日本はオイルショックを機に戦後初のマイナス成長を記録し、ニクソンショックと合わせ、奇跡とも評された戦後の高度経済成長を終焉させる画期点となったのである。  
 世界的に見ても、1970年代は、ニクソンショックによる「ブレトンウッズ体制」の終焉に加え、オイルショックがもたらした石油資本寡占体制の終焉は、戦後の相対的に安定した国際貨幣経済にとっての大きな分岐点であった。
 一方、OPEC諸国にとって、オイルショックはオイルチャンスとなり、これ以降、預金通貨の形で獲得された潤沢なオイルマネーを戦略的に投資し、遅ればせながらの高度経済成長を達成する契機となったのである。  
 ちなみに、1979年には自身OPEC原加盟国でもあるイランでの革命を機に、第二次オイルショックを惹起している。このように、オイルショック現象とは、人為的(政治的)な要因で引き起こされる現代的経済危機の中でも最もマイナス影響の強いものと言える。


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