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貨幣経済史黒書(連載第14回)

2018-09-24 | 〆貨幣経済史黒書

File13:アメリカ1819年恐慌

 前回見た1825年恐慌はナポレオン戦争終結後の移行期における経済変動という性格が強かったが、アメリカではそれに先立つこと数年、1819年に始まり、余波が2年ほど続く大きな金融恐慌を経験していた。1819年恐慌と呼ばれるこの恐慌はアメリカ史上初の平時金融恐慌であり、かつその後のアメリカにおける景気循環史の出発点ともなったとされる。
 この時期のアメリカは建国から30年を越えた転換点に当たり、アメリカ独立後もアメリカ干渉を続けるイギリスとの間の米英戦争―第二次独立戦争―が3年続いた後に終結した平時への移行期でもあった。このような画期点ではとかく経済混乱が起きやすいものだが、1819年恐慌はそのような転換期混乱現象の一つであった。
 恐慌の引き金を引いたのが米英戦争中に設立された第二次合衆国銀行である点で、イングランド銀行が同じ役割を担った1825年恐慌とも類似する点がある。第二次合衆国銀行は、1811年に設立認可が失効していた第一次合衆国銀行の後継として、1817年に設立されていたものである。
 しかし元来、反中央集権思想の強いアメリカでは中央銀行の設立にも否定的であり、第二次合衆国銀行も州認可にかかる市中銀行への監督権限が限られ、かつ合衆国銀行自体自体も支店ごと分権的に運営される状態であった。そうした状況下で、先住民から侵奪した西部領土への開拓資金の貸付を第二次合衆国銀行が強力に後押しした。
 このような西部開拓バブルは、早晩はじける運命にあった。1818年に発生した信用収縮が契機となり、翌年以降恐慌へと拡大していく。この時点で第二次合衆国銀行の貸付額が過剰化し、多額の負債を抱えていた。合衆国銀行自体の経営破綻危機である。
 他方で、ナポレオン戦争後、荒廃した欧州に対して綿花を中心としたアメリカ農産品の輸出が盛んになり、急激な生産拡大が起きていたところ、1817年に豊作に転じた欧州がアメリカからの輸入に依存する必要がなくなり、有望な輸出先を失ったアメリカ農業が打撃を受けた農業バブルの崩壊も、恐慌の契機となった。
 恐慌への対応として、合衆国銀行が貸し渋り、市中銀行は債務者への取立てを急ぐ貸しはがしに走るというお定まりの対策が打ち出されたことで、西部開拓者や南部農園主を中心に破産者が相次いだ。特に西部土地バブルに乗り、ローンにより公有地払い下げを受けていた西部開拓者の苦境は、公有地債務者救済法による集団的救済を必要とした。
 アメリカにおける近代恐慌の初例に位置づけられる1819年恐慌も、その要因は複雑で解明の困難なものであった。加えて、アメリカにおける恐慌は、州権が強力で、各州がそれぞれ独自の経済圏と経済財政政策を有する連邦国家アメリカ特有の複雑さを免れない。
 このような時、とかく単純化された解釈が横行しがちであり、恐慌要因を自由貿易に求め、保護貿易を要求する議論、反連邦主義から合衆国銀行に反対する議論も起きた。政治的には、西部出身のアンドリュー・ジャクソンが大統領に選出され、ジャクソニアン・デモクラシーと呼ばれる大衆煽動的なポピュリズム政治の原型を作り出すことにもつながっていった。


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