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晩期資本論(連載第38回)

2015-04-08 | 〆晩期資本論

八 資本の回転(3)

商品から貨幣への、また貨幣から商品への、資本の形態変化は、同時に資本家の取引であり、売買行為である。資本のこの形態転化が行なわれる期間は、主観的には、すなわち資本家の立場からは、販売期間と購買期間、すなわち彼が市場で売り手または買い手として機能する期間である。

 資本の回転の第三の要素、流通期間は資本家にとってはまさに商売の最前線であって、「資本家として、すなわち人格化された資本として機能する期間の必要な一部分をなしている」。これなくして資本の回転はない。

商品売買が資本家たちの手の中で占める範囲の大きさはもちろん、このような価値を創造するのでなくてただ価値の形態変換を媒介するだけの労働を、価値を創造する労働に転化させることはできない。

 生産物の売買は生産そのものとは異なり、価値創造的な労働ではなく、媒介労働にすぎない。とはいえ、こうした媒介労働の担当者の労働は、純粋な流通費を成している。その担当者が二時間余計に剰余労働したとしても、それは価値を生み出さない空費である。

ところが、もし資本家がこの担当者を使用するとすれば、この二時間の不払い(剰余労働)によって、彼の資本の流通費、すなわち彼の収入からの控除となる流通費は、減少する。彼にとってはこれは積極的な利得である。

 営業担当者の剰余労働は剰余価値を生まないが、流通費節約の効果はあり、資本家にとってはそれを積極的利得とみることはできる。とするならば、こうした節約による「積極的な利得」を、ある種の消極的な剰余価値とみなすことはできるかもしれない。

現実の売買でのほかに労働時間は簿記にも支出され、この簿記にはまたそのほかに対象化された労働、すなわちペンやインクや紙や机や事務所費がはいってくる。つまり、この機能には一方では労働力が支出され、他方では労働手段が支出される。この場合も事情は売買期間の場合とまったく同じである。

 マルクスは生産過程が社会的な規模で行なわれるにつれて必要となる簿記に着目し、不生産的な純粋流通費の二つ目に簿記費用を挙げている。マルクスは、簿記は「共同体的生産では資本主義的生産でよりももっと必要になる。しかし、簿記の費用は、生産の集積につれて、また簿記が社会的な簿記に転化すればするほど、減ってくるのである。」とも述べ、共産主義的生産過程における簿記の社会化と費用削減というメリットを強調する。逆に言えば、資本主義は簿記費用の増大という無駄を抱えていることになる。

金銀は、貨幣商品としては、社会にとって、ただ生産の社会的形態から生ずるにすぎない流通費をなしている。それは商品生産一般の空費〔faux frais〕であって、この空費は、商品生産の、また特に資本主義的生産の発展につれて増大するのである。それは、社会的な富のうちの流通過程にささげられなければならない一部分である。

 資本の回転を通じ、資本の一部が常に貨幣資本形態で存在するのが資本主義の特徴であり、それゆえに貨幣の取り扱いをめぐる諸費用も、不生産的な純粋流通費を成す。現代では電子マネー化などの技術的方法で費用節減を図っているが、根本的な対策ではない。逆に言えば、共産主義ではこうした貨幣関連流通費の無駄も省かれるであろう。

(以上のような純粋流通費に対して、保管費や運輸費のような)流通費は生産過程から生じうるものであって、ただこの生産過程が流通のなかでのみ続行され、したがってその生産的な性格が流通形態によっておおい隠されているだけである。他面では、それは、社会的に見れば、単なる費用であり、生きている労働なり対象化されている労働なりの不生産的な支出だと言えるのであるが、しかし、まさにそうであることによって、個別資本家にとっては価値形成的に作用することができ、彼の商品の販売価格への付加分をなすことができるのである。

 商品の保管・輸送などの諸費用は、「生産過程そのものから生じうる」というのはいささか言い過ぎとしても、生産過程の延長であって、価値創造的であるから、商品価格に転嫁されることで個別資本家にとっては致富源泉ともなるのである。もちろん、これらの諸費用も節減が目指され、運輸業や倉庫業などの商業部門が発達してきたところである。


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