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犯則と処遇(連載第19回)

2018-12-28 | 犯則と処遇

16 生命犯―生と死の自己決定について(中)

 前回見たように、出生前の胎児を中絶することを合法化するとしても、出生後の人を殺せば違法な殺人であることは言うまでもない。伝統的に、殺人は最も自明の犯罪行為と認識されてきたが、近年は「殺人」の概念にも変容が生じてきている。
 「殺人」と言えば、かつては殺意をもって他人を心臓死させることと決まっていたが、近年は「脳死」の概念が登場してきたため、「殺人」の定義も見直しを迫られている。
 「脳死」の概念はほとんど専ら脳死者からの臓器摘出・移植という高度医療を可能とする文脈で引き合いに出されるため、「脳死」は果たして人の死と認められるか否かをめぐって論争が提起される。

 脳死者からの臓器移植を合法化する限り、それを犯則行為として立件することはあり得ない一方、「脳死」をいずれは心臓停止に至る不可逆的な状態とみなすなら、死を心臓死か脳死かというある一時点の事象としてとらえるのでなく、脳死から心臓死までの時間的なプロセスとしてとらえる「プロセスとしての死」という発想に切り替える必要があるだろう。
 これはより明確な心臓死をもって死ととらえる伝統的な理解に比べて不安定さを残し、反対論もあり得るところである。心臓死説は脳死状態でも心臓は動いていてぬくもりもある“人”を死体とみなすことは容認できないという感情に基づいているが、これは多分にして、かの生命の神秘化と関わっている。
 しかし、脳科学の発達に伴い、人間の生命活動を実質的に統括しているのは心臓以上に脳であることが判明するにつれ、生体の司令センターたる脳の機能停止をもって人の死の重要な要素とみなそうとする考えが医学的に定着してきた。

 もちろん、病態によっては脳死を経由せず短時間または瞬時に心臓死へ至ることもあり、俗に「即死」と呼ばれる。しかし、場合によっては、脳死から心臓死まで時間的なプロセスをたどる病態もあり、そうした時間差を利用して行われるのが移植医療である。
 「プロセスとしての死」という概念によれば、脳死者からの臓器摘出は生体でなく死体からの摘出となるから、殺人に当たらないことは当然である。形としては死体損壊であるが、法の定める正当な手続きに従い、移植医療の一環として実施された限り、完全に合法的な医療行為である。
 一方、殺意をもって他人に暴行を加え、脳死状態にさせれば殺人は既遂に達するのであり、未遂ではない。しかし、脳死状態にある被害者を山林などに捨てることは死体遺棄であって、生きている人を棄てる遺棄ではない。

 こうして「プロセスとしての死」という死の規定によると、死の概念に時間的な幅が生じるので、各人がどのような死に方をするか、つまり自分らしい死に方―臓器を提供するかどうかを含めて―を選択する余地が生まれてくる。
 しかし、臓器移植を高度に推進するために、原則として近親者の同意だけで臓器移植を可能とする法制が導入されると、このことによって個人的な信条から臓器提供を望まない人の自己決定が妨げられる恐れも出てくる。

 その点、近親者の同意だけで臓器提供ができるということは、本人の生前における臓器提供拒否の意思表示を認めないという趣旨ではない以上、本人が生前に臓器提供を拒否する意思を口頭または書面で明示していた場合には臓器摘出は違法とされるべきである。
 この基本ルールは臓器移植法上明文で定められるにとどまらず、書面上の意思表示を簡便に行えるよう、「臓器提供拒否カード」を正式に発行したうえ、臓器提供拒否者登録制度を整備し、医療現場でも登録情報を迅速に検索できるように制度化することが求められる。


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