ザ・コミュニスト

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移民不要社会への転換

2019-03-17 | 時評

15日にニュージーランドで発生したモスクでの銃乱射大量殺傷事件は、これまで平和な楽園的イメージでとらえられていた国での出来事だけに、世界に衝撃を与えている。もっとも、犯人はオーストラリア国籍者ということで、外部からの攻撃とみなすこともでき、今後の捜査の進展を見る必要はある。

とはいえ、全体に平和なイメージのオセアニアという大きなくくりで見れば、この圏域にもアジア・中東等からのイスラム教徒移民の増加が目立ってきているとともに、それに対する白人至上主義者らの反発も強まっていることが窺える。

移民は先史時代以来、人類が反復してきた営為であり、人類の歴史とは移民の歴史とも言えるわけだが、21世紀になって世界的な問題となってきている大量移民の波が20世紀以前の移民と異なるのは、貧困や迫害を理由とする以上に、豊かさを要因としているという逆説的な事実である。

実際、主要な移民送出国となっているアジア・アフリカ諸国にも、20世紀末以降、資本主義的市場経済の発達により、急成長している諸国が少なくない。それにもかかわらず、移民の波が絶えないのは、稼げない者は置き去りにする資本主義が本質的に持つ「置いてけ掘り経済」の性格により、経済発展から取り残された人々の移民志向が高まっているせいである。

つまり、本国で極貧・飢餓状態にあるわけではないが、十分な収入の得られる職に就けず、より良い機会を求めて先発資本主義諸国へ移住しようとする人々の波である。

本来、人間は自身が生まれ育った場所で充足して生きていけるならば、そこから海を越えてまで移住しようとは欲しない。郷里で充足できないから、移民志向が生じる。裏を返せば、充足して生きられる社会は、移民不要社会である。隣国同士がすぐ見えるところにあり、鶏や犬の鳴き声が互いに聞こえるようであっても、民衆は老いて死ぬまで、互いに往来することもないという『老子』の「小国寡民」は、移民不要社会の文学的理想郷である。

そのような移民不要社会への現実的な転換は、「途上国援助」ではなくして、そもそも資本主義の揚棄を通じて、環境的な持続可能性をも考慮した共産主義計画経済を実現することによってしか成し得ないだろう。

しかし、それは一朝一夕に達成できることではないとすれば、それまでの間の暫定施策として何ができるかを考究することも必要である。

その際、伝統的な「難民」の概念を離れ、移民を「機会移民」と「避難移民」の二種に分けることである。機会移民とはまさにチャンスを求めて移住してくる人々であるが、このような移民は移民受入国側の雇用政策・人口政策上調整が必要であるので、無限に受け入れることはできず、政策的な枠を設け、家族呼び寄せも制限する。

それに対して、避難移民は故国での何らかの危難を逃れて移住してくる人々であり、優先的保護の必要性が高い移民である。このような移民は難民の厳密な要件に該当しなくとも、難民に準じた保護を与える必要があり、家族呼び寄せの権利も保障しなければならない。

こうした避難移民の受け入れが特定諸国の集中的負担とならないよう、避難移民保護条約のような国際条約を制定して、受け入れ余力のある世界各国がそれぞれ応分に受け入れの義務を負うような国際施策を実行すべきである。

しかし、繰り返せば、このような施策はあくまでも暫定的なものにとどまるのであり、究極的には移民不要社会への転換を目指すべきことに変わりない。それが大量殺傷事件のような悲劇と、このような悲劇を餌に台頭してくるファシズムとを根本から撲滅する策である。


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