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共産法の体系(連載第4回)

2020-01-10 | 〆共産法の体系[新訂版]

第1章 共産主義と法

(3)法の活用①
 民衆会議を通じて民衆が生産する共産法にあっては、法の適用に関しても、ブルジョワ法とは異なる原理がもたらされる。すなわち、共産法は立法府から切り離された行政府によって上から発動されるものではなく、民衆会議自身によって下から活用されるものである。
 つまり、共産法の適用とは、民衆が共に生産した法を社会内で活用することを意味する。これは単なるレトリックではなく、実際的な意義を持つ原理である。
 すなわち、民衆会議体制にあっては、法の適用に当たる全機関が民衆会議の下部機関として、民衆会議の監督下に置かれる。つまり、法の制定と法の適用とは、民衆会議を舞台とする一連の流れの中に置かれるのである。
 その結果として、法の適用過程で、行政府(または司法府)に属する諸機関によって法内容が都合よく解釈され、歪められるような事態がなくなる。さらに、法の適用に際して、市民はそれを一方的に受忍すべき受動的な地位には立たない。
 たとえ身柄を拘束するような強制力を伴う法の執行であっても、それは法の権威的な発動ではなく、民主的な活用であるからには、市民は能動的な地位に立つ。すなわち、市民は法の執行に対する異議・不服申立ての権利を広く保持することになる。
 もっとも、市民個々に法の個人的な解釈権が与えられるわけではない。しかし、市民は「法は法なり」のトートロジーの前に無力な存在なのではなく、法の活用主体として、異議や不服を通じて法の適正な活用に関与する余地が広がるということである。
 ただし、言うまでもないことであるが、共産法は特定の階級や集団の異議・不服を忖度して適用されるような不平等を来たすことはなく―もし、いささかでもそのような不平等が認められるなら、それは真の共産法ではない―、法の前の平等は貫徹される。
 かくして、民衆によって生産され、活用される共産法は、形式的な強制力だけを残して凝固・硬直した死んだ法規ではなく、適用に対する異議や不服を通じて日々その妥当性が点検されながら社会の秩序ある運営のために活かされる活きた法だと言えるだろう。

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