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近代革命の社会力学(連載第57回)

2020-01-06 | 〆近代革命の社会力学

八 フランス・コミューン革命

(2)敗戦と第二帝政の崩壊
 フランスでは、1848年第二次欧州連続革命の渦中で唯一革命がひとまず成功し、18世紀フランス革命以来の第二共和政が樹立されたのであったが、世界初となる労働者階級の代表も参加した共和政府が大衆迎合的なルイ・ナポレオンに乗っ取られ、さらに叔父を真似た帝政に転換されることにより、歴史の繰り返し現象に陥っていた。
 とはいえ、この第二帝政はナポレオン・ボナパルトの第一帝政と完全に同一ではなかった。たしかに1860年頃までの第二帝 政前半期は議会軽視の専制的な色彩が強く、「権威主義帝政」と称される。これは、反革命が成功したドイツその他の主要国の革命後の反動政治に合流していく動きとも言えた。
 転換点となったのは、1860年の英仏通商協定と翌年のメキシコ出兵であった。前者は英国との二国間自由貿易協定であり、これによりフランス農産物の対英輸出の増加で農民は潤うも、対抗的に英国工業製品の輸入が増加し、出遅れ気味のフランス資本にとっては打撃となった。こうしたトレードオフの明暗は、およそ自由貿易につきまとう諸刃の剣効果である。
 後者のメキシコ出兵は、メキシコに国債利息の支払を強制するという名目で、米国に対抗してラテンアメリカにおけるフランスの覇権を確立すべく実行したもので、一時は親仏傀儡帝政を樹立することに成功するも、反仏共和派の革命により、傀儡帝政は崩壊し、失敗に終わった。
 こうした外交通商政策面での失政は、第二帝政への信頼を揺るがせたため、1860年代以降、ルイ・ナポレオンはそれまでの権威主義的な姿勢を改め、一定の自由化を進めた。そのため、これ以降、最終的な帝政崩壊までを「自由主義帝政」と呼ぶが、あくまでも相対的な政策の変化にすぎず、民主的立憲君主制に転換したわけではない。
 とはいえ、抑圧統制が緩和されたことで、労働運動が刺激された。この「自由主義帝政」の時期のフランスは、大陸欧州における労働運動の中心地となる。また、英仏通商協定の副次効果として、労働運動のメッカとなっていた英国の労働運動との共闘が進んだのもこの時期であった。
 そうした革新的な波の一つの合法的な表現が、1869年総選挙であった。この選挙では帝政に批判的な穏健共和派が躍進し、議席の半数近くを占めるに至った。この段階はむろんまだ革命ではなかったが、帝政にとっては手痛い敗北であった。折からの長期不況により、労働者のストライキも発生し、にわかに政情が不安定化する。
 最後的な打撃となったのは、1870年の普仏戦争である。当時、反動的な専制君主制下にあったプロイセンとは友好関係にあっても然るべきところ、スペイン王位継承問題をめぐって対立し、プロイセンとの戦争に突入したのだった。プロイセン側では、強力な宰相ビスマルクの指導下、ドイツ統一へ向けたナショナリズムが勃興し、結束していたことも悪運であった。
 緒戦はフランス優位だったものの、近代化が進んでいた仏軍に対し、装備で劣勢な普軍は鉄道網を利用した機動作戦によって盛り返し、仏軍を撃破していった。ルイ・ナポレオンが軍人だった叔父にならって親征し、自ら戦場に赴いたのも逆効果であった。セダンで普軍に包囲された皇帝自ら捕虜となる羽目になったからである。
 この屈辱的な敗戦に怒った民衆が帝政打倒を叫んで蜂起し、にわかに革命的様相を呈したため、穏健共和主義者が機先を制する形で、帝政廃止と臨時国防政府の樹立を宣言した。この過程を主導したのは、先の69年選挙で当選した穏健共和主義者レオン・ガンベタであった。
 弁護士出身のガンベタに代表される穏健共和主義者はおおむね中産階級出自であったから、このたびで三回目となるフランス共和革命の第一段階は(プチ)ブルジョワ革命としての性格を持ったが、プロイセンによるフランス占領もあり得る国家存亡危機の中、臨時政府の緊急の課題は戦争処理に置かれることになった。

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