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農民の世界歴史(連載第27回)

2017-01-10 | 〆農民の世界歴史

第7章 ブルジョワ革命と農民 

(4)ロシアの農奴解放

 18世紀にプガチョフの乱を経験した帝政ロシアでは、元来は啓蒙主義的だったエカチェリーナ2世を反動化させ、さらにフランス革命の衝撃は女帝をして、農奴制の実態を紀行文で告発した啓蒙的な廷臣貴族アレクサンドル・ラジーシチェフをシベリア流刑に処する思想弾圧に走らせた。
 こうしてドイツ以上に後進的で搾取的な農奴制が持続した帝政ロシアでも、19世紀に入ると遅ればせながら農奴制廃止への動きが表面化してきた。19世紀前半、農奴の不満は農民一揆の多発化という形で表面化していたが、前世紀のプガチョフの乱のように体制を揺るがす大規模な反乱は不発であった。
 一方で、フランス革命に触発された進歩的な将校の間では帝政に対するブルジョワ民主改革の機運が生じ、1825年のデカブリストの乱として表出された。この軍事反乱は農奴制廃止を直接の目的とするものではなかったが、反乱将校らは部下である農奴出身の兵士から農村生活の実情を知り、同情する立場にあった。
 さらにプーシキンやトゥルゲーネフといった地主貴族出身ながら進歩派のロシア近代文学者も、農奴制批判を内包する作品群を生み出した。とりわけトゥルゲーネフは投獄も辞さない確信的な農奴制反対者となり、その作品は後に農奴解放を決断する皇帝アレクサンドル2世にも影響を及ぼしたと言われる。
 そうした中、時のニコライ1世は、体制を脅かす急進的な思想を厳しく取り締まりつつ、一連の法令を通じて農奴の待遇改善策を講じた。この「改革」はどこまでも体制の枠内でのガス抜き的な改善策に過ぎないものではあったが、農奴解放へ向けた最初のステップであった。
 ニコライを継いだアレクサンドル2世は歴代ロシア皇帝中では相対的にリベラルな思想の持ち主であり、父帝の路線をさらに発展させる「大改革」に出た。その直接のきっかけは1856年のクリミア戦争敗北にあると言われるが、そればかりでなく、アレクサンドルの個人的な思想性、さらには農奴制そのものがロシアの主産業である農業の発展の桎梏ともなっていたこともあっただろう。
 皇帝は1861年に農奴解放令を発し、数百年来のロシア農奴制の廃止を宣言した。これは、皇帝自身が述べているように「上からの改革」であり、その点では一足先にプロイセンで実施されたユンカー改革と同種のものであったが、ロシアでは皇帝自らのイニシアティブでなされた点で、画期的であった。
 とはいえ、ユンカー改革と同様、改革は徹底したものではなく、抜け道として農地の三分の一は旧地主に留保され、残余地も政府が地主に土地の買戻し金を支払い、農民は政府に対して償還債務を負担するという仕組みであり、実質上は土地の有償分与にほかならなかった。そして、分与地もミールと呼ばれる農村共同体の集団所有とされ、自治的な形ではあるが引き続き農村に束縛されるという仕掛けになっていた。
 こうしてロシア農村はひとまず法的には農奴制を脱したのであるが、構造的貧困から脱することはできず、このことは農村を基盤とした新たな社会主義運動へとつながる。それは一部暴走してアレクサンドル2世暗殺とその後の帝政反動をもたらし、ロシア革命を準備したであろう。

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