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農民の世界歴史(連載第26回)

2017-01-09 | 〆農民の世界歴史

第7章 ブルジョワ革命と農民 

(3)ドイツ・ユンカー改革

 以前見たように、封建分立的なドイツでもとりわけプロイセンでは反動的な農奴制が維持されており、農場領主たるユンカーは農場経営の傍ら、将校や官僚として政治行政にも関与するなど、政治経済両面で強力な権勢を誇っていた。
 しかし、18世紀のフランス革命はドイツ・プロイセンにも及んできた。プロイセンはナポレオンのフランス軍に敗れ、1807年の和約を経て領土の半分を喪失したのであった。この屈辱的国難が自由主義的な改革の契機となった。
 07年に首相に就任したハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインは農奴制廃止、土地売買の自由、職業選択の自由を認める勅令の発布を主導したが、ナポレオンから謀反を疑われた彼が辞職に追い込まれると、後をカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクが継承した。
 07年からハルデンベルクが退任した22年までの自由主義的な一連の改革政治は二人の首相の名を取って「シュタイン‐ハルデンベルク改革」と称されるが、この改革はもとより下からの革命ではなく、上からの「改革」に過ぎず、特に農奴解放に関してはユンカー層の抵抗により、農奴保有地の三分の一返還を条件とする有償解放にとどまったため、中途半端に終わった。
 結局、ユンカーらは新たに土地を喪失した農民を雇用して農場を経営する資本主義的農場主となり、旧反動農奴制は資本主義的ユンカー経営へと再編されていった。これにより、ユンカーは直営農地をいっそう拡大し得たほどであり、かえってより洗練された農場領主制に転換されただけだったとも言える。
 一方、土地売買が自由化されたことで、ある程度の有産農民はユンカー領の一部を買収して地主成りすることができるようになったが、このようなケースは一部にとどまり、大多数の解放農奴は農場の賃金労働者に転じるほかはなかった。
 しかし「諸国民の春」と称される1848‐49年の欧州連続革命渦中、いまだに留保されていた中世以来の領主裁判権がようやく廃止され、統一ドイツ帝国が成立した後の72年には領主警察権も廃止されるに至った。これで、さしあたり中世的な農奴制の名残は一掃されたことになる。
 ドイツ統一を主導した「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルクは、自身もユンカー出身であった。ユンカー層は既得権益の喪失につながりかねないドイツ統一にはおおむね反対であったが、開明的な保守主義者であったビスマルクはそうした反対を抑えて統一と近代化を実現したのであった。
 その一方で、ビスマルクはそれ以上の社会主義的な革命に対しては断固抑圧の姿勢を維持したため、根本的な農地改革はなされず、ユンカーはかねてより進出していた軍部や中央官庁で引き続きポストを独占していた。
 サバイバル戦術に長けたユンカー層は中途半端に収束した20世紀初頭のドイツ革命も生き延び、その解体は内発的ではなく、20世紀半ば、第二次世界大戦後のソ連軍によるドイツ占領下で強制的に実施されるのを待たねばならなかった。

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