八 資本の回転(1)
一人の個別資本家がある任意の生産部門で投じた総資本価値がその運動の循環を描き終われば、それは再びその最初の形態に帰っていて、そこからまた同じ過程を繰り返すことができる。この価値が資本価値として永久化され増殖されるためには、その過程を繰り返さなければならない。この一回の循環は、資本の生涯のなかで、絶えず繰り返される一節、すなわち一周期をなしているだけである。
このような資本の周期的な循環をマルクスは「資本の回転」と呼び、資本の流通過程を解析する第二巻における重要な課題としている。
・・・与えられた一資本の総流通期間は、その資本の流通期間と生産期間の合計に等しい。それは、一定の形態で資本価値が前貸しされる瞬間から、過程を進行する資本価値が同じ形態で帰ってくるまでの期間である。
「資本主義的生産の規定的な目的は、つねに前貸資本の増殖であ」るからして、資本の回転期間とは、「資本の生活過程における周期性を、または、こう言いたければ、同じ資本価値の増殖過程または生産過程の更新、反復の時間を表わしている」。
一つの個別資本のために回転期間を速めたり縮めたりするかもしれない個人的な冒険を別とすれば、諸資本の回転期間は、それらの投下部面が違うにしたがって違っている。
一労働日が労働力の機能の自然的な度量単位になっているように、一年は過程を進行しつつある資本の回転の自然的な度量単位になっている。
資本の回転数は回転期間の単位一年(12か月)を個別資本の回転期間で割った商で表わされるから、回転数は回転期間に反比例することになる。ということは、回転期間が短いほど回転数は上がり、剰余価値生産の効率は高まる。「資本家にとって、彼の資本の回転期間は、自分の資本を価値増殖して元の姿で回収するためにそれを前貸ししておかなければならない期間である」から、資本家は回転期間の短縮のために奮闘し、時に「個別資本のために回転期間を速めたり縮めたりするかもしれない個人的な冒険」も犯すのである。
労働手段が機能する全期間にわたってその価値の一部分はつねにそれに固定されており、それの助力によって生産される商品にたいして独立に固定されている。この特性によって、不変資本のこの部分は、固定資本という形態を受け取る。これに反して、生産過程で前貸しされている資本の他のすべての素材的成分は、この固定資本にたいして、流動資本を形成するのである。
マルクスは資本の回転に影響を及ぼす二つの資本形態として、固定資本と流動資本を区別する。固定資本の典型例は、作業用建物や機械などの労働手段となる生産財である。一方で、原財料のようにそれが機能している間、固有の独立的な使用形態を保持しない生産財は、流動資本である。ただし、この区別は労働過程における機能によって定まるので、例えば家畜を労役に用いる場合は固定資本だが、畜産の素材とする場合は流動資本となるというように、同じ物がどちらにもなり得る。
マルクスはこの二つの資本形態について学説史にも視野を広げて縷々分析をしているが、ここでは晩期資本論を論ずるに際して必須の議論ではないので、割愛する。
・・・資本主義的生産様式の発展につれて充用される固定資本の価値量と寿命とが増大するのと同じ度合いで、産業の生命も各個の投資における産業資本の生命も、多年にわたるものに、たとえば平均して一〇年というようなものになるのである。一方で固定資本の発達がこの生命を延長するとすれば、他方では、同様に資本主義的生産様式の発展につれて絶えず進展する生産手段の不断の変革によって、この生命が短縮されるのである。
マルクスは、資本の回転周期を支配するのは固定資本の回転であるとみている。そのうえで、マルクスは大工業の平均的な生命循環を10年と推定しているが、現代資本主義では生産手段の技術的変革、特に情報技術の変革・更新の速さからみて、産業の生命循環速度は5年あるいはもっと短縮されているだろう。その結果、資本の回転期間は高速化し、剰余価値の生産効率が高まっている。
このような、連続的な、いくつもの回転を含んでいて多年にわたる循環に、資本はその固定的成分によって縛りつけられているのであるが、こうした循環によって、周期的な恐慌の一つの物質的な基礎が生ずるのであって、この循環のなかで事業は不振、中位の活況、過度の繁忙、恐慌という継起する諸時期を通るのである。
マルクスはこのように固定資本の回転が恐慌を破局的頂点とする景気循環の物質的基礎になるとみていたが、そうだとすれば、日進月歩の技術革新により回転期間が高速化した現代資本主義ではそれに伴う景気循環の周期も早まっていることになる。
・・・とはいえ、恐慌はいつでも大きな新投資の出発点をなしている。したがって、また―社会全体としてみれば―多かれ少なかれ次の回転循環のための一つの新たな物質的基礎をなすのである。
景気循環のサイクルの中で繰り返し現われる恐慌(あるいはそれに匹敵する大不況)は、資本主義の終焉契機となるのではなく、むしろ次の新投資のスタート地点である。言い換えれば、資本主義は恐慌―それに伴う生活破壊―を踏み台にしてリセットされていくまさに恐るべき経済システムである。