九 資本の再生産(2)
再生産表式論を展開するに当たり、マルクスはまず「与えられた価値の社会的資本は、今年も去年と同じに再び同じ量の商品価値を供給し同じ量の必要を満たす」という想定の単純再生産を例に取る。しかしマルクス自身断っているとおり、「一方では、蓄積または拡大された規模での再生産がまったく行なわれないということは資本主義的基礎の上では奇妙な仮定であり、他方では、生産がそのもとで行なわれる諸関係がどの年にも絶対に変わらないというようなことはない」。
とはいえ、「蓄積が行なわれるかぎりでは、単純再生産ははつねにその一部分をなしており、したがってそれ自体として考察されることができるのであり、蓄積の現実の要因なのである。」として、単純再生産の事例を原理的なモデルケースとして、考察が進められる。その際、以下の「三つの大きな支点」が検討される(以下、部門Ⅰ、Ⅱの意味は前回記事を参照)。
両部門間の転換 Ⅰ(v+m)=Ⅱc
簡単に言えば、部門Ⅰの資本家が、その生産物のv部分を成す労賃を労働者に支払い、Ⅰの労働者はそれでもって部門Ⅱの資本家から消費手段を購入する。部門Ⅱの資本家はその対価で部門Ⅰの資本家から同額価値相当の生産手段を購入する。これにより、部門Ⅰの資本家のもとに最初に支出したvが還流してくるので、結果として、Ⅰのv+mはⅡのcと等価である。
この理は、単純再生産にあっては当該年度に消費された生産手段はその生産手段で生産された年間生産物で補填されていかねばならないという一般法則に帰着するが、拡大再生産を軸とする資本主義体制では本来想定できないことである。
部門Ⅱのなかでの転換 必要生活手段と奢侈手段
Ⅱ(v+m)の帰趨の件である。簡単に言えば、部門Ⅱの資本家がその労働者に労賃として支払うvで労働者はⅡの生産物である消費手段(必要生活手段)を購入する。言わば、労働者による自身の生産物の買戻しである。結果、vがⅡの資本家に還流する。
ここで、Ⅱmの部分の帰趨も問題となるが、マルクスはこの部分をⅡの資本家自身による奢侈消費手段に消費されると想定することで、解決している。しかし、晩期資本主義では一定貯蓄を持つ労働者も奢侈傾向を帯びており―その限りで、マルクスが部門Ⅱに設けた必要生活手段と奢侈手段の亜部門の差は相対化されている―、労働者にも一定還流していると言えるだろう。このことは、mを生み出しているところの搾取に対する労働者の意識を鈍らす要因となっている。
部門Ⅰの不変資本
「不変資本Ⅰは、製鉄所にいくら、炭鉱にいくらというようにさまざまな生産手段生産部門に投下されているさまざまな資本群の一団として存在する」。そして、部門Ⅰの内部で流通する。これはある意味堂々巡りの流通である。「資本家階級Ⅰは、生産手段を生産する資本家の全体を包括している。」とも言われるように、部門Ⅰはいわゆる基幹産業部門でもあり、資本主義体制下でもこの部門が一部国有化されることがある。
「仮に生産が資本主義的でなく社会的であるとしても、明らかに部門Ⅰのこれらの生産物はこの部門のいろいろな生産部門のあいだに、再生産のために、同様に絶えず再び生産手段として分配され、一部分は、直接に、自分が生産物として出てきた生産部面にとどまり、反対に他の一部分は他の生産場所に遠ざけられ、こうしてこの部門のいろいろな生産場所のあいだに絶えず行ったり来たりが行なわれることになるであろう」。こうして、部門Ⅰは資本主義・共産主義両様式に共通する再生産構造を持っている。