ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

マルクス/レーニン小伝(連載第19回)

2012-09-14 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 カール・マルクス

第4章 革命実践と死

マルクスは、何よりもまず革命家でした。
―盟友フリードリヒ・エンゲルス


(1)共産主義者同盟の活動

1848年「革命の年」
 ここで時期を遡って、マルクスが理論的活動と不可分一体のものとして重視した革命的実践活動の軌跡を追ってみよう。
 第2章でも見たとおり、マルクスが初めて革命的実践と呼び得るものに関わったのは最初の亡命地ブリュッセルでの共産主義者同盟の活動であったが、1848年のフランス2月革命を機にブリュッセルを追われると、パリを経てベルリン3月革命後のプロイセンへ戻り、ケルンを拠点に労働者組織の結成に尽力する。
 マルクスとエンゲルスはつとに『共産党宣言』の中で、ドイツにおける革命の展望として、立ち遅れた半封建的なドイツではプロレタリア革命に先行してまずブルジョワ革命がなくてはならないと論じていた。そしてこの「プロレタリア革命の前奏曲」たるブルジョワ革命の局面では、共産主義者はプロレタリアートを支援しつつ、革命を主導する進歩的ブルジョワジーとも連携するが、同時にブルジョワ革命成就後は一転、プロレタリアートがブルジョワジーに対する闘争を開始することができるように労働者に階級対立の意識を生じさせる努力をするというのである。
 マルクスはこれに関連して、共産主義者同盟員へ向けた呼びかけの中で、ブルジョワ革命後に「新しい公式の諸政府と並行して・・・・独自の革命的な労働者諸政府を打ち立て(る)」ことを求めている。これはいわゆる並行権力論であり、後にロシア革命時のいわゆるソヴィエト(評議会)で実践されたのであるが、1848年のドイツではそもそもブルジョワ革命自体が不首尾に終わってしまったのである。
 こうした結果に至ったのは、マルクスによれば、革命の一つの所産でもあったフランクフルト国民議会が空疎な憲法論議に明け暮れ、またプロイセン・ブルジョワジーが反革命反動らと手を組んだせいであった。
 一方、連続革命の大元フランスでは4月の総選挙でプチ・ブルジョワと農民層の支持を受けたブルジョワが勝利し第二共和政を開始すると、社会主義者は排除され、すでに単なる失業対策事業と化していた国立工場も閉鎖された。怒ったパリの労働者による6月蜂起―マルクスはこれをプロレタリア革命と認め、『1848年6月の敗北』(後に『フランスにおける階級闘争』として改題公刊)で分析した―も政府軍によって鎮圧された。これを機に反動化が進み、ルイ・ボナパルトの独裁体制・第二帝政へとなだれ込んでいくのであった。

弾圧と分裂・解散
 前章でも先取りしたように、フランスの反動化を契機として周辺諸国の革命も順次挫折していき、マルクスのいたケルンでも共産主義者同盟関係者の検挙に続いて、マルクスにも退去命令が出たため、彼はパリを経由してロンドンへの亡命を余儀なくされたのであった。
 ロンドンは一時マルクスら亡命者のたまり場のようになった。そこで、マルクスとエンゲルスは亡命によって廃刊せざるを得なかった『新ライン新聞』の後継的な新聞『新ライン新聞 政治経済評論』をハンブルグで創刊するとともに、共産主義者同盟の再建に着手した。しかし資金難に加え、同盟の内部分裂も激しくなった。
 この頃、共産主義者同盟の本部はパリからケルンへ移っていたが、1851年中旬から6月にかけて、まだケルンに残留して活動していた有力メンバーが一斉逮捕・起訴された事件―マルクスはこの一件をパンフレット『ケルン共産党裁判の真相』にまとめ、53年にバーゼルとボストンで匿名出版した―を機に事実上壊滅状態に陥ってしまった。こうした経緯にかんがみ、同盟存続の意義は消滅したと判断したマルクスの提案に基づき、52年11月、同盟は解散を宣言した。設立からわずか5年あまりの命脈であった。
 結局のところ、共産主義者同盟も、その綱領文書であったマルクス‐エンゲルスの『共産党宣言』も、1848年の連続革命にはほとんど影響を及ぼさなかったし、その後も組織力の弱さから同盟はプロイセン当局の一撃の下に壊滅してしまったのである。それほどに当時の彼らはマイナーな存在にすぎなかった。

コメント