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マルクス/レーニン小伝(連載第17回)

2012-09-06 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第3章 『資本論』の誕生

(4)主著『資本論』

誕生の経緯
 先に述べたように、マルクスが1859年に出した自信作『政治経済学批判』は売れなかった。「出版の継続は第一分冊の売れ行きにかかっている」。出版直前の知人宛て書簡でマルクスはそう言っていた。商品交換経済を批判的に解析しようというマルクスが商品としての本の売れ行きに将来をかけなければならない皮肉もまた、資本主義的現実なのであった。
 売れなかった大きな理由の一つはマルクスが大学・学界に属する講壇経済学者でなかったことにある。元来マルクスは経済学専攻者でなく、経済学に関しては門外漢であったから、彼を「経済学者」と呼ぶのは適切でない。実際、先に見たように、彼の「政治経済学批判」も決して新しい経済学体系の構想ではなかったのである。講壇経済学者たちの「黙殺」も当然であった。
 しかし、それ以上にマルクスを打ちのめしたのは、彼が最も伝えたかった同志たちの間でも理解されなかったことである。彼は出版後の知人宛て書簡の中でそのことを恨めしげに書いている。大学・学界に属する権威筋の学者でなく、プロレタリア革命の理論家であるマルクスが自身の理論を最も伝えたかったプロレタリアートに届かなかったことは大きなショックであった。
 その理由はもちろん悪意による「黙殺」ではなく、マルクス理論の難解さにあった。そしてこの難解さゆえの無理解は、後に主著『資本論』ではより成功を収めた後もついて回る―今日に至るまで―マルクス的事象なのであった。
 このような事情から、マルクスは当初の全六部構成の刊行計画を見直さざるを得なくなり、資本に関する第1部のみにしぼって改めてまとめ直すこととし、さらに8年の歳月をかけて研究を進めていった。その間、彼は国際労働者協会(第一インター)の結成に関わり、新たな政治的実践を始めたほか、フランスの第二帝政(ルイ・ナポレオン政権)のスパイであったカール・フォークトなる人物による中傷宣伝への対応にも追われるなどしたが、ついに1867年、新たな企画による『資本論』第1巻が世に出ることになった。
 しかし予定されていた第2巻以降は結局、マルクス生前に刊行されることはなかった。第2、第3巻はマルクスの遺稿を整理・編集したエンゲルスの手でマルクスの死後公刊され、第4巻はエンゲルスの手も及ばず、20世紀に入ってエンゲルス晩年の弟子であったカール・カウツキーによって別本(邦題『剰余価値学説史』)として編集・公刊された。

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