こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

死を受け入れるための一つの方策としてのメメント・モリ

2023年01月17日 | 生き方について考える
平成7(1995)年1月17日に6千人余りの人が亡くなった阪神・淡路大震災が起きてから28年、私はまだ生きている。
自分の意志で生きているのか、それとも神さまに生かされているのかはわからない。
YMOの高橋幸宏さんが70歳で亡くなった、脳腫瘍を患っていたという。
中学〜高校の間、YMOの熱心なファンだった私としてはすくなからず衝撃を受けた。
久しぶりにYMOを聴くと、全く色褪せない曲調に感動すら覚えるが、もうそれを聴くことはできない。
自分の人生の一部が重なる出来事、人物が、死によって過去のものとなっていく。

メメント・モリという言葉を最近よく耳にする。
ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬ事を忘れるな」「人に訪れる死を忘る事無かれ」というような意味だ。
このことは多くの方がブログで触れているし、私ですらこれまでに何度か書いたことで、死は人類いや、生きとし生けるもの全てに共通した運命だ。

こういった言葉が流行るようになったのは、どこまで行ってもいつまで経っても逃げることのできない新型コロナウイルスのせいなのか、ウクライナでのロシアによる民間人の虐殺を目の当たりにしてのことなのか、それとももっと他のことのせいなのかはわからない。
ただ、死というものが以前よりもぐっと近くなってきたことは間違いなく、より多くの人が”死”を考えるようになったのではないか。

自分が死ぬということを考えるのは辛い。
たとえ五体満足のつもりでも、いつ死が訪れるかなど全くわからないし、それが突然やってくることになったらさぞ慌て、恐れおおのくだろう。
そんな死から逃れることはできないが、死の恐怖から逃れることはできるのではないか。
そんな思いが、死への恐怖をメメント・モリというちょっとオシャレな言葉に置き換えているように思う。
人はなぜ、生きたいと思い、死にたくないと思うのか。

ベランダに集う小鳥やリスたちは、生きることが当たり前で、一生懸命生きているようにみえる。
彼らは自らのというものをどう考えているのだろう。
それより、人に食べられてしまうために生かされている家畜たちにとってのとは何か。
死は全ての生命にとって普遍的であるが、それと同時にそれぞれの個体にとって固有の事象でもある。
生命を共有することはできない。

ところで、私は病理医で、医師としてこれまで数百の死体と向きあってきたはずなのに、生命活動の停止としての死しか考えておらず、死そのものの意味は考えてこなかったような気がするが、いったいなにが死の本質であるのかはよくわからない。

死んだあとのことは考えない

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