京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

木曽三川・治水事業 (漫画「風雲児たち」から)

2007-01-11 16:55:34 | 風雲児たち!
 話はさかのぼって。
 江戸時代。

 美濃の国の民をたびたび困らせていた、暴れ川。
 木曽川・長良川・揖斐川。(でしたっけ。)
 この三つ並びの川。
 隣り合わせでありながら、それぞれ海抜が違うため、ひとたび大水となれば、堤防が決壊し、一つの大海と化してしまうのでありました。

 そんな暴れ川の中に出来た中州集落。
 水害起こるたびに、家や人が押し流され・・・

 住民の知恵として、輪中が作られたり。
 江戸幕府が成立してからは、木曽川の東にある駿府城を水害から守るため、お上による大規模な治水事業が行なわれました。

 しかし、このお上による堤防が木曽川の東端に作られたため、かえって、西側の水害がひどくなる結果となりました。
 住民の必死の嘆願の末。
 幕府は動き。
 なぜだか、薩摩藩に治水工事の命が下りました。

 なぜなら、薩摩藩いぢめ。
 に、他ならない。

 関が原以来。
 薩摩は、敗戦国でありながら、唯一領土を搾取されなかった。
 西の大国。
 敗者の苦肉の策。
 (関が原では、直接戦を交えることのなかった薩摩藩だが、撤退時、藩のプライドかけて、家康陣地のまっ正面を突っ切って、退却したのであった。)
 そして、必死の外交のおかげである。(ハッタリとしかいいようがない。)
 (当時、戦に勝利したからとはいえ、まだまだ形勢不安定であった家康陣、そうそう簡単にはつぶせなかった。)

 逆に言えば、幕府からすると、鼻持ちならない存在に他ならない。
 ああ、チャンスさえあれば、よこっぱな、へし折ってやりたい。
 そう思っていたわけで。

 薩摩藩の金による、薩摩藩の人による、大工事が行なわれることとなった。
 しかも、宿賃、メシ代、水一杯まで、びっちり向こう側にお金を取られるシステム。
 必要人員として、地元の民も雇うが、とうてい役に立ちそうに無い子供、年寄りにいたるまで、雇わなければならないお達しで、しかもたかーい人件費を払わなければいけなかった。
 尋常でない、幕府の締め付け。
 (ここらへんは、参勤交代システムによる、各藩締め付けと同じ性質だろう。)
 要は、難癖、けちつけ放題、びた一文でも多く薩摩藩から搾取し、隙あらばつぶしてしまおう、という腹である。


 書くのに、ギブアップ。
 これ、まんが「風雲児たち」第3巻の受け売り。



 とにかく、ひどいんですわ。
 最後の最後まで、ひどい話で。
 何度読んでも、涙を禁じえません。

 そのなかで、薩摩藩必死の生き残りをかけて、何十万両という膨大な金策に走り回った重臣たち。
 そして、この過酷な状況の藩内にありながら、その命に従い、見知らぬ土地の治水工事の重労働に耐えた藩士たち。
 その求心力とは、何だったのか。
 
 薩摩藩士。
 関が原退却時。



 向こう数万人とも、数十万人ともいわれる家康陣を突っ切って。
 当主ただ一人を、生きて領地まで帰すため、自ら盾となり、身代わりとなった藩士たち。
 死してなお、その場を塞ぎ、動かなかったそうです。
 1600余の兵が、帰ったときには、数十人しか残っていなかったといわれています。

 そんな逸話が、藩内で語り継がれ。
 子から孫。孫からひ孫へ・・・



 でもさ。
 そんなに嫌なら、逃げたらいいのにさ。
 そんな借金まみれの藩なんて、勝手につぶれりゃいいじゃん。



 どうして、過酷な状況にありながら、彼らは逃げなかったのでしょう。



 考えれば考えるほど、涙を禁じえません。

 


 文章力が無いので。
 どこまで伝わったか・・・

 一人でも多くの方に、この漫画を読んで欲しいわ。
 この歴史知らずして、日本の歴史は語れない・・・と思うんですわ。

 私は、ネットのアマゾンで検索して、買いました。
 「風雲児たち」
 作者は、みなもと太郎という人です。
 すぐ出てきます。

 てゆーか、読みたい方は、貸しますので、いつでも辻しばにお越しください。
 ほんとにね。

 
 

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
凄い感動物 (うっちー)
2008-04-06 21:53:35
歴史に没頭の 妻 薩摩藩士の心が伝わりましたよー

返信する
念願の木曽三川が見れて、満足です。 (うっちー様)
2008-04-10 10:08:53
実は・・・
私の生まれ育った土地も、水害の多いところでして。
こういう話になると、おのずと力が入ってしまいます。

私が中学二年生のとき、梅雨明け前の集中豪雨がありまして。
その時は、いつもの大雨とは確かに違う降り方・・・
家の前の坂道は滝のようになり、玄関のピンポンは強風で鳴りっ放し。
カミナリがなるごとに、地震の様な揺れと停電。
明け方前には、避難するようにとの呼びかけがありました。

夜明けて、雨がやんだ静寂・・・
テレビでは、町内の土石流発生についてやっていました。
死者11名だったか・・・
そのなかに、バレー部の後輩が居ました。
特に話したことはなかったのですが。
(というか、ちょっとしたことで、ライバル意識を持っていた子)
豪雨前日の終業式の日の部活の時、ボールを拾ってもらい、初めて会話・・・
「結構良い子じゃん!」と思ったところでした。

子供ながら・・・水害は心に暗い影を落としました。
夏休み中、町を離れることがあればホッとし。
町に戻ってくると、また水害の残骸をみてブルーに・・・

今、京都に来て・・・
ここは水害とは縁遠いし、のんびりしてるな~と思いますが。
防災といえば、花背活断層のことですね。
直下型きたら、市街部からの孤立も予想されます。
「生き残っても地獄」にならないよう、日々努力していかなければ、と考えています。
ご近所さんとも助け合い!、普段から仲良くしていきたいなあと思っています。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。