大谷吉継公の墓所に行くには、二つのルートがあるようでした。
一つは、中山道(国道21号線)沿いにある神社から登る道。
もう一つは、関が原鍾乳洞や胡麻の郷がある県道229号線から中山道に抜ける道・・・から登っていく道でした。
ネットでいろいろ調べてみたら。
どうも、中山道沿いの神社から行く方が楽なようでしたから。
半分その気になっていたのですが。
よく読んでみると・・・
神社の参道の途中、JR東海道線の線路が横切っているそうで。
そこは、踏み切りが無くて、見通しの悪い・・・
魔の踏み切り?のようでした。
(貨物列車も多いし)
大人だけならともかく、足元おぼつかない子供を連れてますので。
やっぱり止めておきました。
それで。
今回、二つ目に紹介したルートから墓所を目指すことにしました。
このルート、地図だけ見たら、林道のような表示で、墓所に向かう遊歩道に近い部分は点線になっていて、車では行けない様な感じでした。
でも、ぶっつけ本番で行ってみたら、遊歩道の入り口まで入れました。
(最近補修したのか、結局中山道まで抜けれるようでした。)
(オヤジ様も、このルートを通られたのですね。)
(遊歩道で城山?方面に向かいました)
この遊歩道の反対方面には、天満山があり、そちらには、宇喜多秀家の陣跡があります。
ハイキングルートとして整備されているのか、周りには梅の花が咲いていたり、なかなか綺麗でしたよ。
大原を出る時は小雨がぱらつき。
滋賀県も、くもり時々小雨のような天気でしたが。
こちら関が原は晴天。
勝手な思い上がりですが。
「大谷公に呼ばれてる~」と思いました。
こういうのも運と縁だから・・・
縁がなかったら、きっと行けなかったよね。
縁があって、良かった!
(入り口から100メートルほど、階段を上がりました。)
急峻な坂道を登りきると、あとは比較的平坦な山道が続きました。
数百メートル程で到着。
遊歩道入り口から、大人で5~10分ほどと書いてありましたが。
子供連れてると、丁度良いハイキングになりました。
一番身軽な長男は、どんどん先に行くのが嬉しいようで。
それに負けじと追いかける次男。
(追いつけないので、カンシャク起こしていましたが。)
やっぱり男の子、元気です。
(長女は、まだ山道が怖い年頃です。)
山道を進んでいくと、大谷公戦陣跡との分岐点があり。
もう、そこからは、見慣れた旗がヒラヒラと・・・
念願の大谷公のお墓の前に到着しました。
(大谷吉継と家臣の湯浅五助のお墓)
やっとお会いできましたね。
と、心の中でつぶやく・・・
子達は、お決まりのあんあんさんをする。
数々のブログで、お墓にはいつもお花が供えられている、と見ましたが。
確かに、今日もシキミかサカキが飾ってあり。
しかも、きれいに水掃除した後のようでした。
そういえば・・・
遊歩道から山道に上がる途中。
40代くらいの、葉っぱ(シキミかサカキ)を持った男性とすれ違いました。
その人は、自転車かバイクで帰って行きましたが。
ああ、あの人だったのね。
家の墓守だけでも大変なのに、わざわざ山の中に入ってのお世話・・・
ご苦労様です。
(観光協会から委託されてるのか、それとも個人でされていることなのか?)
(背後から: 主君から退いた位置にある湯浅五助の墓)
さて。
主君・大谷吉継公の隣で眠っている・・・
家臣の湯浅五助。
逸話の多い主君に負けず劣らずの伝承が残っているようです。
(これは、帰ってきてから調べて分かりました。)
主君から厚く慕われて、信頼を得ていたらしい湯浅五助・・・
諸説ありますが。
「この首を敵に渡すな!」との命を受け。
切腹後の大谷吉継公の介錯(首を取る事)をして、その首を持って逃走を計りました。
(みなもと太郎「風雲児たち」より)
ところが!です。
五助が、追っ手から逃れ、主君の首を葬っているところを・・・
あと一歩というところで、敵の藤堂高虎方に見つかってしまいました。
藤堂方も、姿を見て、ピーンと来た!
「さては、主君の首を埋めておるのじゃろう」
湯浅五助、ひるむも。
「首を渡すなとの主君の仰せ。
私の首を差し出すかわりに、主君の首は探さないでほしい。」と懇願。
その姿に打たれた藤堂方も追及はせず、五助の首を持ち帰った・・・
首実検。(誰が誰の首を取ったか明らかにすること)
徳川家康の前に、湯浅五助の首が出された。
「五助ほどの家臣ならば、主君の首のありかも知っていたはず。
なぜ、生かして追求しなかったのか?」
と家康に詰め寄られた藤堂方の家臣。
「それを申すくらいなら、褒美・命も惜しくない」
と、頑として譲らなかった。
その姿に、家康も心を打たれ。
「いや、あっぱれじゃ」と言ったかどうかはわからないが。
働き以上の功賞を取らせ、褒め称えたと言います。
よくでけた話といえば、話ですが。
きっと、それほどの魅力ある人物だったからこそ、これらの逸話が伝えられてきたんでしょうね。
この、大谷公・湯浅五助の墓所も・・・
後になって、藤堂家が建立したと言います。
話には、諸説異話もあり・・・
いや、そうではない、大谷公の首は五助が埋めたんじゃなくて。
戦陣の混乱の中、五助が大谷公の介錯をして、落ちた首を誰それが受け取り・・・
それを甥っ子の誰それが布にくるんで、逃走し、米原の山中に埋めたとの・・・
説もあって、米原には大谷公の首塚があるそうです。
あ~マニアック。
まあ、どっちでもいい。
どっちにしろ、この地で関が原の戦いが行われたのだ・・・
あ~、本当にあったんだ。
大谷公という、逸話あふれる魅力的な人物も、確かにこの世に存在したのだ。
(かたくりの花?がアチコチに咲いていました。)
かたくり、という花が、こんなにも普通に自生しているものかどうかは知らないが。
たくさんのかたくりが咲いていました。
まるで、数々の御霊を弔うかのように・・・
不思議な光景でした。
さて。
さきほどの分岐点から、今度は戦陣跡の方に向かいました。
行かなくても良いと思ったが(お墓だけで満足だし)
ここは、それほど遠くないので、ついでに行くことにしました。
子供たちも文句言いません。
ただ、長女の抱っこをしている若!が可哀想でした。
(平坦なところは、私もしましたがね。)
すぐに到着しましたが。
道中は、ぐちゃぐちゃのぬかるみ道もあり、靴が
(関が原の盆地に面する、大谷吉継の戦陣あと)
急峻な場所で、それほどの陣が作れそうもありません。
大谷公は、死ぬ覚悟で来た事、小部隊であったこともあり・・・
かなり簡素なものだったのかもしれません。
(まあ、そういうところにまた惹かれるんですよね。)
(JR東海道線・中山道沿いにある若宮八幡神社の裏山でした。)
もうすぐそこが東海道線の線路のようで、電車の音が聞こえました。
彼が、この戦陣で、何を見、何を思ったか・・・
思いをはせるほど、それは、歴史ロマンですね・・・
まあ、戦場は凄惨極まりないものだったでしょうが。
それを礎に、今の私達があるんですね。
そう思うと、何とも不思議。
ちなみに。
駆け引き上手の家康。
毛利方内部の裏切りと、小早川秀秋の寝返りが決定打となって、戦の勝敗が決定したと言われています。
それが無かったら、もしかしたら、石田光成・西軍方が勝ち、家康・東軍方が負けたのか・・・
とかモンモンと考えたりもしますが。
やはり、あれだけの家康だったからこそ、江戸幕府を築くことが出来・・・
今「篤姫」やら「大奥」でやってるような~
スレスレの内部事情の中でも存続することができるような、強固な政治機構を構築することが出来たのだろうと思います。
やっぱり、たいした器です、家康は。
ま~。
やっぱり、私は、大谷公が好きですけどね。
一つは、中山道(国道21号線)沿いにある神社から登る道。
もう一つは、関が原鍾乳洞や胡麻の郷がある県道229号線から中山道に抜ける道・・・から登っていく道でした。
ネットでいろいろ調べてみたら。
どうも、中山道沿いの神社から行く方が楽なようでしたから。
半分その気になっていたのですが。
よく読んでみると・・・
神社の参道の途中、JR東海道線の線路が横切っているそうで。
そこは、踏み切りが無くて、見通しの悪い・・・
魔の踏み切り?のようでした。
(貨物列車も多いし)
大人だけならともかく、足元おぼつかない子供を連れてますので。
やっぱり止めておきました。
それで。
今回、二つ目に紹介したルートから墓所を目指すことにしました。
このルート、地図だけ見たら、林道のような表示で、墓所に向かう遊歩道に近い部分は点線になっていて、車では行けない様な感じでした。
でも、ぶっつけ本番で行ってみたら、遊歩道の入り口まで入れました。
(最近補修したのか、結局中山道まで抜けれるようでした。)
(オヤジ様も、このルートを通られたのですね。)
(遊歩道で城山?方面に向かいました)
この遊歩道の反対方面には、天満山があり、そちらには、宇喜多秀家の陣跡があります。
ハイキングルートとして整備されているのか、周りには梅の花が咲いていたり、なかなか綺麗でしたよ。
大原を出る時は小雨がぱらつき。
滋賀県も、くもり時々小雨のような天気でしたが。
こちら関が原は晴天。
勝手な思い上がりですが。
「大谷公に呼ばれてる~」と思いました。
こういうのも運と縁だから・・・
縁がなかったら、きっと行けなかったよね。
縁があって、良かった!
(入り口から100メートルほど、階段を上がりました。)
急峻な坂道を登りきると、あとは比較的平坦な山道が続きました。
数百メートル程で到着。
遊歩道入り口から、大人で5~10分ほどと書いてありましたが。
子供連れてると、丁度良いハイキングになりました。
一番身軽な長男は、どんどん先に行くのが嬉しいようで。
それに負けじと追いかける次男。
(追いつけないので、カンシャク起こしていましたが。)
やっぱり男の子、元気です。
(長女は、まだ山道が怖い年頃です。)
山道を進んでいくと、大谷公戦陣跡との分岐点があり。
もう、そこからは、見慣れた旗がヒラヒラと・・・
念願の大谷公のお墓の前に到着しました。
(大谷吉継と家臣の湯浅五助のお墓)
やっとお会いできましたね。
と、心の中でつぶやく・・・
子達は、お決まりのあんあんさんをする。
数々のブログで、お墓にはいつもお花が供えられている、と見ましたが。
確かに、今日もシキミかサカキが飾ってあり。
しかも、きれいに水掃除した後のようでした。
そういえば・・・
遊歩道から山道に上がる途中。
40代くらいの、葉っぱ(シキミかサカキ)を持った男性とすれ違いました。
その人は、自転車かバイクで帰って行きましたが。
ああ、あの人だったのね。
家の墓守だけでも大変なのに、わざわざ山の中に入ってのお世話・・・
ご苦労様です。
(観光協会から委託されてるのか、それとも個人でされていることなのか?)
(背後から: 主君から退いた位置にある湯浅五助の墓)
さて。
主君・大谷吉継公の隣で眠っている・・・
家臣の湯浅五助。
逸話の多い主君に負けず劣らずの伝承が残っているようです。
(これは、帰ってきてから調べて分かりました。)
主君から厚く慕われて、信頼を得ていたらしい湯浅五助・・・
諸説ありますが。
「この首を敵に渡すな!」との命を受け。
切腹後の大谷吉継公の介錯(首を取る事)をして、その首を持って逃走を計りました。
(みなもと太郎「風雲児たち」より)
ところが!です。
五助が、追っ手から逃れ、主君の首を葬っているところを・・・
あと一歩というところで、敵の藤堂高虎方に見つかってしまいました。
藤堂方も、姿を見て、ピーンと来た!
「さては、主君の首を埋めておるのじゃろう」
湯浅五助、ひるむも。
「首を渡すなとの主君の仰せ。
私の首を差し出すかわりに、主君の首は探さないでほしい。」と懇願。
その姿に打たれた藤堂方も追及はせず、五助の首を持ち帰った・・・
首実検。(誰が誰の首を取ったか明らかにすること)
徳川家康の前に、湯浅五助の首が出された。
「五助ほどの家臣ならば、主君の首のありかも知っていたはず。
なぜ、生かして追求しなかったのか?」
と家康に詰め寄られた藤堂方の家臣。
「それを申すくらいなら、褒美・命も惜しくない」
と、頑として譲らなかった。
その姿に、家康も心を打たれ。
「いや、あっぱれじゃ」と言ったかどうかはわからないが。
働き以上の功賞を取らせ、褒め称えたと言います。
よくでけた話といえば、話ですが。
きっと、それほどの魅力ある人物だったからこそ、これらの逸話が伝えられてきたんでしょうね。
この、大谷公・湯浅五助の墓所も・・・
後になって、藤堂家が建立したと言います。
話には、諸説異話もあり・・・
いや、そうではない、大谷公の首は五助が埋めたんじゃなくて。
戦陣の混乱の中、五助が大谷公の介錯をして、落ちた首を誰それが受け取り・・・
それを甥っ子の誰それが布にくるんで、逃走し、米原の山中に埋めたとの・・・
説もあって、米原には大谷公の首塚があるそうです。
あ~マニアック。
まあ、どっちでもいい。
どっちにしろ、この地で関が原の戦いが行われたのだ・・・
あ~、本当にあったんだ。
大谷公という、逸話あふれる魅力的な人物も、確かにこの世に存在したのだ。
(かたくりの花?がアチコチに咲いていました。)
かたくり、という花が、こんなにも普通に自生しているものかどうかは知らないが。
たくさんのかたくりが咲いていました。
まるで、数々の御霊を弔うかのように・・・
不思議な光景でした。
さて。
さきほどの分岐点から、今度は戦陣跡の方に向かいました。
行かなくても良いと思ったが(お墓だけで満足だし)
ここは、それほど遠くないので、ついでに行くことにしました。
子供たちも文句言いません。
ただ、長女の抱っこをしている若!が可哀想でした。
(平坦なところは、私もしましたがね。)
すぐに到着しましたが。
道中は、ぐちゃぐちゃのぬかるみ道もあり、靴が
(関が原の盆地に面する、大谷吉継の戦陣あと)
急峻な場所で、それほどの陣が作れそうもありません。
大谷公は、死ぬ覚悟で来た事、小部隊であったこともあり・・・
かなり簡素なものだったのかもしれません。
(まあ、そういうところにまた惹かれるんですよね。)
(JR東海道線・中山道沿いにある若宮八幡神社の裏山でした。)
もうすぐそこが東海道線の線路のようで、電車の音が聞こえました。
彼が、この戦陣で、何を見、何を思ったか・・・
思いをはせるほど、それは、歴史ロマンですね・・・
まあ、戦場は凄惨極まりないものだったでしょうが。
それを礎に、今の私達があるんですね。
そう思うと、何とも不思議。
ちなみに。
駆け引き上手の家康。
毛利方内部の裏切りと、小早川秀秋の寝返りが決定打となって、戦の勝敗が決定したと言われています。
それが無かったら、もしかしたら、石田光成・西軍方が勝ち、家康・東軍方が負けたのか・・・
とかモンモンと考えたりもしますが。
やはり、あれだけの家康だったからこそ、江戸幕府を築くことが出来・・・
今「篤姫」やら「大奥」でやってるような~
スレスレの内部事情の中でも存続することができるような、強固な政治機構を構築することが出来たのだろうと思います。
やっぱり、たいした器です、家康は。
ま~。
やっぱり、私は、大谷公が好きですけどね。
幸、バーナー(コールマン)とランタン(ユニフレ)は震災用にメンテしてあったので(ほっ)
シュラフとヨーレイカ&ターフは明日にでも掃除します
そろそろ勇気出してメンテナンスしないと、再起不能になりそうですよね。
はあ~、どうしよう。
テントもだし。
大型ザックもダンボールに入れたまま。
若!のシュラフは、ここの・・・パソコン机の横にあるのですが。
放置してるから、さすがに洗わないと、何が繁殖しているか分からないです。
まずは、テントの修復かな。
(メンテナンステープも、新しいのにしないと、古くて痛んでるかも)
デイキャンプから挑戦してみます。