京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

先日の、木曽三川治水事業の話の続き。

2007-01-14 14:44:10 | 風雲児たち!
 こないだ、わたくし、途中で沈没してしまいましたので。
 その続きから。

 いやね。
 私が思うに、「忠臣蔵」より大きく扱うべき史実だと思うんですよ。
 (言葉足らずで稚拙な表現をしますと)
 忠臣蔵より、もっと泣けます。
 (薩摩の皆さん、ごめんなさい。こんな表現で。)
 史実の悲惨さはもとより、藩士の忠義の厚さに胸を打たれます。
 比べてもしょうがないんですけどね。
 こんなに地味な扱いでいいんだろうかと思うわけです。

 さて。
 話は戻り。
 (資料は、全て前回と同じく漫画「風雲児たち」から用いております。)
 (ブログを初めて御覧の方、1月11日分も併せ持って御覧下さいませ。)

 薩摩藩。
 七十七万石の大国ではありましたが、それも名前だけ。
 裏返してみると、度重なる桜島の大噴火で米の取れ高も保障されず。
 いったん被害が出れば、イモ食って飢えをしのぐ。 
 そんな半農半士の侍の集まりでありました。
 借金、七十万両あるのみ。

 ですから、幕府が、おんしらの金使って、他所さの川の治水工事を行なえというのは、どだい無理な話なのでした。
 幕府による見積もりは、十四、五万両・・・
 「工事ば受くればわが薩摩は潰れもす。」

 かといって、断れば、即反抗とみなされ、藩の御取り潰しもされかねない。
 「進むも地獄、退くもまた地獄・・・」
 まさに、非常事態でありました。

 おのれ、幕府よ。
 今こそ、さつまっぽの御意地かけて、公儀と一戦交え、海の藻屑と散ってしまおうではないか。
 一同、決起の時。

 まて。
 ここで早まれば、先の戦いで散った1500余命の命を、犬死とすることとなるぞ。
 「すまぬ。耐えてくれ。」
 かくして、薩摩藩士、遠く見知らぬ地、濃尾の地まで旅立ったのであった。

 一か月あまりの陸路、海路を経て、続々と「戦場」に到着した。

 当初の幕府による工費見積もりは、15万両(現在のお金で、100億円前後)。
 だが、さらに同額程度の追加工費が必要であることが通達されました。
 莫大な費用。

 それを上方から資金調達してきたのが、勝手方家老の平田靱負(ゆきえ)でありました。
 三十万両の金策。
 それは、密貿易品の売りつけと、奄美・与論・沖永良部から採れる砂糖を担保にした借金でした。
 悲しきかな。
 封建社会の宿命か。
 上は下を責め、下は、またその下を責め立てる。
 薩摩もまた、植民地への圧力をもって、資金調達せからしめたのでした。
 (ごめんなさいね。あげたり、さげたりで。だけど、ここもまた外せない歴史の一部分であります。)


 話、半ばですが。
 うん百年続いた江戸幕府も、封建制度により支えられたものでした。
 近代的な国家成立は、まだまだ明治を待たねばなりません。

 武家社会の厳しいご法度に着目。

 よく、「法治主義」とか「法の支配」とか新聞で耳にしますが。
 時々、意味を混同して、用いられております。
 簡単に説明しますと。
 「法治主義」とは、おもに、主君による絶対主義的国家の中での、主君が国民を縛り付けるための、法律使用の考え方です。
 それに対し、「法の支配」は、現代のような民主主義国家の中で、国民が(あるとすれば)主君の絶対的支配を防止すべく作られた法律使用に基づく考え方です。

 さすれば、江戸幕府のそれは、法治主義。
 まさしく、幕府が各藩や民衆を絶対支配するための、がんじがらめの法体制でありました。
 守らなかったら、お取り潰しだよーん、それとも斬っちゃおうか?なーんてね。

 当然、閉塞感でいっぱいです。
 常に恐怖や不安に怯えていなければいけません。
 種まきゃ、必ず作物がとれるというものでなし・・・
 厳しい幕藩体制。
 たまるは、お金か、恨み辛みか。
 内側から、膨張。
 爆発してしまったといっても、言い過ぎでは無いかもしれません。



 ああ、また、わたくし、沈没しそう。



 さてさて、家老平田公の資金調達に勇気付けられた藩士たち、見知らぬ土地での、慣れない作業を次々こなしていきました。
 第一期は3ヶ月、逆川洗堰締切工事。
 第二期は6ヶ月、大ぐれ川洗堰工事と、油島突端から川を二筋に分ける大堤防工事が行なわれました。
 重機の無いこの時代、しかも素人によるもの、いかに大変な難工事であったか想像に難くありません。

 そんななか。

 「度重なる屈辱に耐えきれず 工事の難航に絶望し 
  病死していく友のあとを追い
  望郷の念止みがたく
  幕府への恨みとやり場のない怒りを己にむけて」 
 憤死するものが相次ぎました。

 「しかし、このことが公となれば、幕府への批判、抗議と受け取られる。
  あくまでも、反抗の意思がないことを示さなければならなかった。」
 
 彼らの死は、「腰のものにて怪我」として処理されました。

 「工事終了までに、薩摩藩士の殉難は、切腹52名、病死32名にのぼったのである。
 この中には、事故死者は一人もいないから、あるいは犠牲者はもっと多かったのかもしれない。
 そして、切腹したのは薩摩藩士ばかりではなかった。
 何と、幕臣のなかからも二名、薩摩藩士に同情したか、幕府に抗議して切腹した役人がいるのである。」

 かくして、宝暦5年、3月28日。
 木曽三川改修工事は終わりました。



 疲れ果てた薩摩藩士のほとんどが立ち去ったあと。
 工事総奉行 平田靱負
 「川普請一切の責任を果たし終えて自刃」

 藩主 島津重年
「彼自身 病弱な体質であり いままた平田を失い 
 二年に及ぶ極度の心労のため 
 わずか一ヵ月後 27歳の若さで彼の後を追った。」

「この薩摩藩の悲劇は、幕府を刺激せぬよう、および領民の動揺を恐れて、関係者にも一切の他言を禁じ。
 工事の詳細は、すべて闇に葬られていったのである。
 
 百十年の後、明治維新が起こり、薩摩藩は徳川幕府を倒し、関が原の怨念も消滅したが。
 その頃はすでに宝暦年間の治水工事を知る薩摩人も消え去っていたのである。
 
 子孫にこの物語を語り伝えたのは、濃尾の民、百姓たちであった。
 岐阜の人々が「薩摩様」と感謝をこめて語り継いだ治水工事の物語は、しだいに人々の知るところとなり、資料の発掘、収集により、やがて全容が明らかになっていった。」

 

 治水事業。
 水を制するものは、権力を制する。
 太古の昔から、文明あるところでは、治水権を行使する権力者がおり・・・

 あんまり、現在の治水行政なんかに触れますと、権力がらみになってしまいそうで、何も語ろうとは思いませんけど。
 現在、治水事業は、主として、水害を防ぐための河川改修と、環境問題との間で揺れ動いております。

 もちろん、大きな目で見れば、地球の環境問題は大切なことなんだけど。
 流行的世論に流されやすいという側面もあるような・・・

 水あるところ、歴史アリ。
 隠れた歴史に目を向け、現在の問題についても考えていきたいかなと、考えた妻!なのでした。

 

 
 

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
まるで (小春の母)
2007-01-14 15:30:44
まるで神田紅さんの講壇を聞いているようです
歴史に詳しくない私
我が家の父さんが 先日のブログを見てチラット
『薩摩藩は大変だったんだよ』とポツリと言っていました。
昔の大変だった事は小説や漫画やテレビをみて
ひどいね~ なんて思って見聞きするけど
今の世の中もっとすごいんだろうね~

今日は日曜日 若様は忙しいでしょうね~
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小春の母様 (kazutoyo 妻!)
2007-01-14 15:50:00
おお!
やはり、ご主人様、ご存知でしたか。
お目が高い!

忘れてましたけど。
お父さんが新宿に行くとき。
「もし、小春の母さんが来たら、この漫画渡して、ダンナさんに読んでもらおうか。」
と、言っていたんです。城好きとお聞きしましたしね。

最初の投稿するとき。
話が硬いので、出そうかどうしようか、迷っていまして。
(知ってそうな)建設技術者のさっかんさんに、ブログのコメントで聞いてみました。
ほしたら、小説で読んだことあるそうで。
すると、他の読者の人からも、続々コメントが届いて。
人のブログのコメント内で、えらい盛り上がってしまいました。

けど、わたし、座礁寸前で。
文章の話の筋、意味通じましたか?
もう、頭が疲れてしまって、読み返してもよく分かりません。
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妻 沈没寸前まで (うっちー)
2008-04-06 22:07:57
頑張りやさん 感動した。 薩摩様 濃尾の民の言葉
感にいりました。
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毎日これだけ勉強してたら賢くなりそう・・・ (うっちー様)
2008-04-10 10:15:15
学生時代のテスト前一夜漬けを思い出しました。
これを毎日やってたら・・・と、そのたび思うのですが。
継続できないところが、たまにきずです。
(次男のことを言うてられない、ムラの多い性格です。)
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