神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

蟹川(金川)

2018-10-20 06:05:18 | 蟹川

  蟹川は金川とも呼ばれていました。「金川 同所穴八幡の前を、早稲田の方へ流るゝ小川を云うとなり。今は古川と唱えたり。水源は戸山御庭中より発するところなり。文明年間太田道灌遊猟の時、急雨に逢しは此地にして、昔は川の幅も広かりしとなり。其頃は加奈川又加能川とも称けるとなり。或は蟹川に作る」(「江戸名所図会」) 名前の由来としては、鉄分を含んで赤茶けた川をそう呼ぶことがあるようですが、今回の場合当てはまるかどうかは不明です。

 

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    ・ 蟹川全図  内務省地理局作成の「東京実測図」(明治18年版権届明治20年出版など)をベースに、蟹川の流路を現在の地図に重ねました。ほぼ中央にあるのが戸山公園で、元の尾張藩下屋敷(戸山屋敷)です。 

 蟹川の谷頭は大久保村周辺にありました。「新編武蔵風土記稿」は東大久保村のところで、「内藤新宿より来る細流、又此地にも所々に清水ありて用水に沃く」としていますが、前者は甲州街道に面した太宗寺付近からの流れ、後者は西武新宿駅裏から発し、今は文化センター通りとなっている流れで、東大久保村の鎮守だった西向天神下で落合い、北上して戸山屋敷へと向かい、その大泉水に水をたたえた後、穴八幡前へ流れ出て下戸塚村以下の用水となっていました。「下戸塚村は・・・・戸山屋敷より出る小流を用水とす」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 穴八幡門前  早稲田通りと諏訪通りの馬場下町交差点越しのショットです。手前の横断歩道のあたりを左から右に流れ、そこに駒留橋が架かっていました。 

 戸山屋敷、下戸塚村以降の流路を「新編武蔵風土記稿」の記述で追います。「堀 戸山落と呼ぶ、或は一本橋川とも云、尾張殿戸山屋敷より流れ出、下戸塚を経て当村に入、村内へ用水とし早稲田村に達す、幅六尺」(牛込村)、「堀二 一は戸山落なり牛込村より入中里村に達す、一は中川と呼下戸塚村より来り是も中里村に入、共に幅六尺」(早稲田村)、「堀二 一は戸山落一は中川なり、共に早稲田村より入関口村に達す、幅六尺」(中里村) 中川は→ 「下戸塚村用水」で扱った蟹川の分流、ないし支流で、蟹川と神田川の間にあることからそう呼ばれました。最後は合流した中川と蟹川の流末に関する「御府内備考」の記述です。「大下水 幅凡六尺程、右者町内西の方南より北の方え凡廿間程相流、夫より江戸川え落入申候」(小日向西古川町)