神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

鼠ヶ谷下水5

2018-10-03 06:01:32 | 弦巻川・水窪川

 鼠坂下を過ぎ、左手は江戸時代の音羽町五~四丁目にかけてです。一方、右手から小日向台の崖面が再び迫ってきますが、台上には磐城平藩安藤家の下屋敷がありました。安政4年(1857年)の尾張屋の切絵図には、安藤長門守と記載されています。のち老中となり公武合体を推進、坂下門外の変で失脚した安藤信正です。屋敷地は明治に入り接収され、陸軍の兵器庫となりましたが、現在は大塚1丁目、2丁目の、筑波大付属やお茶大などのある文教地区です。

 

Nezumiga5

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 鼠坂の先です。ここから先の右手台上が安藤家の屋敷地にあたります。

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    2. 崖面から水がしみ出しています。台上が文教地区ということもあり、地下水脈が保たれているのかもしれません。 

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    3. 崖面下の路地が、細かく蛇行しながら続きます。

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    4. 無名坂下です。音羽谷から小日向台に唯一車で上れる戦後開通の坂で、対岸は江戸時代からの三丁目坂です。 

 <小日向台>  音羽谷の左岸(東側)台地は、小日向台と呼ばれています。小日向(こひなた、こびなた)は「小田原衆所領役帳」にも「恒岡弾正忠十六貫五百七十文小日向之内、太田弥三郎二十二貫八百四十文、小日向弾正屋敷」と記載されていますが、その地名由来としては、「江戸砂子」の「往古此所は鶴高日向(つるたかひゅうが)と云人の領地なり。断絶の後古日向の址といふを、いつの比か小日向といひ来れり」がよく引用されます。もっとも、この一節を引用している「新編武蔵風土記稿」は、「其拠を知らず」と否定的な扱いです。なお、現行の住居表示では、「こひなた」と読みを統一しています。