神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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蟹ヶ窪と根津山

2018-10-19 06:13:09 | 弦巻川・水窪川

 池袋村に入ったところにある谷頭は、蟹ヶ窪と呼ばれていました。明治11年(1878年)の「東京府村誌」に、「西山ノ南ヨリ雑司ヶ谷村ニ連ナリ」と書かれた池袋村の字で、のち巣鴨村大字池袋の字に引き継がれましたが、昭和7年(1932年)に豊島区池袋(現東池袋)1丁目となって消滅しました。一方、雑司ヶ谷側には御鷹方組屋敷、そして、三千石の旗本、中西家の屋敷があり、中西の森と通称されていましたが、明治の後半には、東武鉄道の創業者、根津嘉一郎の所有となったことから、根津山と呼ばれることになります。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  池袋駅東口の明治通りや五差路など、主要な道路をグレーで重ねています。

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    ・ 東池袋交差点  上掲地図の右下隅にあたるグリーン大通りの交差点で、右手の高架は首都高池袋線です。このあたりが小高い丘になっていて、根津山の中心でした。

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    ・ 美久仁小路付近  上掲写真正面裏手の一角は飲食店街になっていますが、周囲に比べやや低地になっていて、谷筋にあるのが分かります。

 根津山に開発の手が入ったのは昭和7年(1932年)、「永き懸案であった根津山開発の事は漸く其の緒に就き、池袋駅前の環状線道路の東側より根津山を縦断して、水久保に通ずる道路と同林野の周囲を通ずる道路との築造成り、其の東南端に下水道の製管工場設置せらる」、そう翌年発行の「高田町史」は記述しています。現在はグリーン大通りと呼ばれている改正通りが、根津山を縦断して開通したのは昭和12年、前回UPの→ 「第四回修正」にあるその北側の谷筋沿いの通りも、同時期に開設されました。「高田町史」には根津山の下水道工事の→ 写真が掲載されていますが、あるいはこの谷筋沿いの通りにあって、水窪川の機能を代替しているものかもしれません。