水窪川の水元について「御府内備考」は、「巣鴨村雑司ヶ谷村之内田場際」としていますが、その一帯の字が水久保でした。「新編武蔵風土記稿」によると、雑司ヶ谷村、巣鴨村どちらの小名にも水久保があり、当初は両村にまたがっていたものと思われます。明治に入り、高田村大字雑司ヶ谷の字水久保、水久保新田に引き継がれましたが、巣鴨村大字巣鴨の字からは失われ、かわって巣鴨監獄のある字向原となっています。
- ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)
- 1. 再度右カーブで都電荒川線に接し、しばらくに並行します。
- 2. 突き当りで中断です。なお、この付近の村境は都電の南側を並行する道路にありました。
- 3. 一つ南の道路で再開します。このあたりから村境と重なっていました。
- 4. 蛇行しながら都電荒川線を離れ、西に向います。
- 5. 右折して文化会館前の通りに向かいます。通りと一致するのはここまでです。