神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

江戸川と蟹川

2018-10-22 06:17:22 | 蟹川

 蟹川が神田川に合流するところの町名(小日向古川町)は、神田川の古名がその由来です。「右往古田畑之要水に而古川と唱候処万治年中より江戸川と唱候由申伝候」(「御府内備考」) 引用文中の万治年中(1658~61年)は、牛込までの通船を可能にした神田川の拡張工事が、仙台藩によって行われた時期で、工事によってでた残土を利用して、白鳥橋のある大曲前後を宅地造成したといわれています。神田川改修と宅地造成はさらに上流に及び、蟹川の合流地点の東側にある小日向西古川町が町屋となったのは寛文元年(1661年)、さらに宝永3年(1706年)、西隣にあって小日向村の畑地だった松ヶ枝町が町屋となります。

 

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    ・ 「新版江戸外絵図」  寛文12年(1672年)の「新版江戸外絵図」(寛文図第四)をベースに、蟹川、中川にかかわる部分をイラスト化しました。薄いブルーは田と書き込みのある区画で、道路は主要なものだけをピックアップしています。

 これら二つの時期の中間に位置する「寛文図」では、今日と同じく直線となった江戸川下流に対し、まだくねっている合流地点の蟹川、中川ですが、松ヶ枝町が町屋となったころまでには直線的に付け替えられ、大下水化したものと思われます。その正確な時期は不明ですが、江戸図で現行のように描かれている最初は、(目にした限りでは)宝暦7年(1757年)の「分間江戸大絵図」です。なお、「寛文図」の合流地点は弦巻川の向い、現江戸川橋のところになっており、現在確認できるものより200mほど上流です。おそらく、最も下流にある田圃の縁まで流れ、そこで合流するよう付替えられたのでしょう。

 

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    ・ 神田川  江戸川橋の次の華水橋から下流方向で、左カーブのところに架かっているのが掃部(かもん)橋、右手の高架は首都高5号池袋線です。掃部橋手前が蟹川の付替え後の合流地点です。

 <寛文五枚図>  「新版江戸大図会」及び4枚の「新版江戸外絵図」は、明暦3年(1857年)の大火後、幕命により大目付、北条安房守氏長(正房)の指揮の元、金沢清左衛門などが行った実測をもとに、幕府の許可を得て寛文10~13年(1670~73年)に刊行されました。正確な方位と一分を五間とする縮尺(1/3250)によって、当時の江戸全体を描いています。なお作者の遠近道印(おちこちどういん)には諸説ありますが、富山藩の藩医であった藤井半知説が有力です。