神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

中川2

2018-10-25 06:26:00 | 蟹川

 江戸川通りを越えた先の中川上流の痕跡は失われました。明治末から大正にかけて、宅地造成が進行したためです。これに加えて、流路と重なる形で現在の新目白通りが開通し、大正7年(1918年)に市電江戸川線早稲田車庫が設けられたことも大きく影響しました。江戸時代から町屋だった下流のほうは、今でも跡をたどれるのと好対照ですが、宅地化が遅れたぶん大規模造成となり、水路の痕跡が失われるのは、これまでも度々見てきたところです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一回修正) / 早稲田」 神田川をブルーで、新目白通りと外苑東通りをグレーで重ねています。薄緑は大隈邸跡地の大隈庭園です。

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    ・ 新目白通り  外苑東通りとの鶴巻町交差点から西に向かってのショットです。ここから上流の中川の流路は、大半が新目白通りと重なります。 

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    ・ 新目白通り  上掲写真から500mほど西の中川の最上流にあたり、右手前は都交通局早稲田営業所、奥はリーガロイヤルホテルや大隈会館です。 

 中川の水源については、地図や文献ごとに異同がありますが、大別すると三種類で、下戸塚村の田圃を灌漑していた天水の余水とするもの、蟹川と結びつけその分流とするもの、そして→ 「寛文図」に描かれた駒塚(駒留)橋付近からの分水で、これは「上水記」にある「関口村田用水」と附合します。ただ、「御府内沿革図書」の→ 附図に神田川からの分水は描かれておらず、関口、小日向両村の町屋化に伴い、19世紀の中頃までには廃止になったことが想定されます。あるいは、「新編武蔵風土記稿」の小日向町在方分に、「用水は神田上水を引沃く」とあるのに対し、関口町在方分に記述がないのは、「新編武蔵風土記稿」の時期(19世紀初頭の文化、文政期)は過渡期だったためかもしれません。