神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

明治の付替え

2018-10-30 06:01:35 | 蟹川

 下掲「明治42年測図」で新たに出現した、済松寺裏からほぼ直線で北に向かう水路に注目です。ここに弁天町方面からの支流、蟹川本流、中川を合流させ、現一休橋付近で神田川に余水を落としており、こうした付替えによって、下流の市街地に向かっていた水路を切り離し、洪水時の浸水対策にしたものと思われます。付替え時期は文献的には未確認ですが、明治40年発行の「郵便地図」は従来のままなので、40年代の初めになされたのでしょう。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  同一場所、同一縮尺の「実測図」は→ こちらで、その主要な流路をブルーで重ねています。 

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    ・ 新水路の起点  済松寺裏の付替え後の水路の起点です。前回最後の→ 写真と同じT字路を向きを変えて撮影したもので、右手が新宿山吹高校、正面が早大通りです。 

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    ・ 合流地点  新目白通りを越えた先から一休橋方向です。橋の傍らには「一休橋の由来」の石碑があり、「橋畔に一休名残蕎麦なる名物」から名付けられました。 

 <関口橋(一休橋)>  「関口橋は水道町の内と水洗堰の下流に渡せり里俗一休橋と称す」(「御府内備考」) 一方享保20年(1736年)発刊の「続江戸砂子」は「名残橋」とし、「此所に一休み名残の蕎麦といふ看板を出せし者あり。いつとなく此名を呼て橋の名となれり」と書いています。いずれにしても、橋の架けられていたのは現一休橋よりだいぶ下流でした。なお、同書は大洗堰以降の橋名を名残橋、九丁目の橋、麁朶(そだ)橋、掃部(かもん)橋、大橋としています。二番目の橋には「音羽町九丁目」と注記があり、現江戸川橋のことでしょう。また麁朶橋は古川橋、大橋は石切橋の別名です。