「下落合村は日本橋より行程二里、家数六十七、四境東は下高田村西は多摩郡上高田村、南は上落合上戸塚の二村北は長崎村なり、東西二十町南北五町余、・・・・用水は前村に同じ」(「新編武蔵風土記稿」) ここに前村というのは上落合村のことで、そこには「村名は神田上水の溝渠と井草川と当所にて落合し故かく名付と云・・・・上下二村に分れしも古き事にて、正保改には既に上下落合二村とす・・・・用水は井草川より引用ゆ」などと書かれています。
- ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は新宿区と豊島区の区境、同細線は落合村当時の村、大字境です。
落合の名前の由来については、引用文にもあるように神田川と妙正寺川の落ち合うところとされますが、その名前は既に「小田原衆所領役帳」の中に、太田新六郎知行の内、「拾貫五百文 江戸落合鈴木分長野彌六分」として登場しています。ここから、「新編武蔵風土記稿」は、(江戸開府後に行われた)神田上水の開削以前に、その元となった自然河川が存在したと推測しており、今日の一般的理解と一致しています。
- ・ 氷川神社 「村の鎮守也、・・・・以上四社薬王院持」(「新編武蔵風土記稿」) 上掲「近傍図」で、薬王院右下の神社記号が氷川神社です。
ところで、「新編武蔵風土記稿」の収録する下落合村の小名は七曲と中井で、前者に関し「左右松林の山にて少しの坂あり、屈曲せし所数回成ればかく唱ふ」と書いています。薬王院の東側の坂は、今でも七曲坂と呼ばれています。「新修新宿区町名誌」(平成22年 新宿歴史博物館)によると、中井と七曲の境は西坂にありました。上掲「近傍図」で、神田、妙正寺川の合流地点近くに架かる西橋(比丘尼橋とも)から、目白通りへと至る通りがそれで、下落合村をほぼ二分していました。一方、中井のほうの地名由来はよくわかりませんが、中は上下落合の間、井は豊富な湧水との推測ができそうです。井は居なのかもしれません。