神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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幡ヶ谷村分水口

2018-07-05 06:04:39 | 幡ヶ谷支流

 玉川上水は笹塚駅前にある二号橋で、再び暗渠になりますが、その手前に幡ヶ谷村分水口がありました。その大きさは「上水記」の数字で、「水口竹樋壱尺廻り内法二寸四方」、のち「四寸五分四方」と訂正されています。幡ヶ谷村分水は分水口から北上して甲州街道に突き当たり、その南縁に沿って西に向かいます。いわゆる「逆さ川」です。そして、三郡橋で代田村からの水路と合流、右折して甲州街道を越えていました。このルートは、→ 「幡ヶ谷村絵図」からも読み取ることができます。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一回修正) / 中野」  玉川上水の開渠区間をブルーで、甲州街道や笹塚駅などをグレーで重ねています。 

 上掲「地形図」の分水口付近に、神社の記号が書き込まれています。本村隧道付近にあった弁天祠(明治に入り市寸島神社)が、明治31年(1898年)完成の新水道工事の際、数百メートル東に移転したことは、該当個所で一度触れましたが、さらに数年後、そのご神体が当地に遷され、周囲に小さな弁天池が掘られました。弁天池の底は玉川上水とこっそり繋がれ、上水の水はあたかも湧水のように弁天池を満たします。こうして、当時公認の樋口5寸四方を越える助水を得たのだと、「幡ヶ谷郷土誌」(昭和53年 堀切森之助編)は書いています。

 

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    ・ 幡ヶ谷分水口  開渠は笹塚駅前の二号橋で中断します。その二号橋から振り返っての撮影で、手前の左岸(右手)には→ 石組みがあり、幡ヶ谷村分水口の遺構と思われます。 

 それ以前には、毎年行われる検査の時だけ、樋口を土で塗り固めて5寸とし、あとはその土を崩して拡張するようにしていたのですが、コンクリートで5寸に固められてしまったため、窮余の策として考え出されたのだそうです。もっとも、江戸時代ならともかく、特に新水道建設後、和泉で新水道に分流して以降の玉川上水の水は、それほど重要だったとも思えず、このような小細工が必要なのかどうか、若干の疑問もあるところです。なお、幡ヶ谷村分水が「地形図」から消えるのは、「昭和3年第三回修正」からで、同6年(1931年)の調査では、「分水使用を廃止し水路を埋立せり」と報告されています。